2021年10月24日 説教 鈴木亮二氏 (信徒)

道端から道に沿って

マルコによる福音書 10: 46 – 52

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身体的な障がいは、その人の行動を大きく制約します。見る・聞く・かぐ・味わう・触れる、五感と呼ばれるこれらの能力の内、特に見る能力・視覚は外の世界から非常に多くの情報を受け取っています。そして次の行動を制御するための信号を脳に送り出します。混雑した人ごみの中で他の人にぶつからないで歩いて行けるのも、それぞれの人がこの能力を使って相手の人の行動を予測して、それに合わせて自分の進む方向を決めているからです。それだけに、視覚を失った人は自分の行動に対して大きな制約を受けてしまうことになります。21世紀の現代、視覚能力が低い人たちを補助するための社会システムや道具はそれなりにありますが、それでもその人たちの不自由さは大変大きなものです。イエス様の時代、視覚障害を支えるシステムは現代に比べてはるかに劣っていましたし、障がいを持つ人に対する偏見も非常に強いものでした。

今日の福音書で読まれた盲人バルティマイもその一人です。目が見えないために一般の人が就くような仕事はできず、生活を維持するためには物乞いをするしかない状況でした。そして彼が物乞いをする場所も、町の広場などではなく人通りを邪魔しない道端でした。当時の町の構造は、外の敵から町を守るため、町の周りに城壁が建てられて町への出入りは街道につながる門だけというものでした。もしかするとバルティマイは町の中で物乞いをすることも許されずに、町の出口の道端にいるしかなかったのかもしれません。そんな彼はイエスと出会います。

今日の聖書は、エルサレムに向かうイエス様たちが最後に立ち寄った町エリコを出ようとしたときの場面です。そしてエルサレムでの活動を前にした最後の奇跡物語です。説教の準備のために今日の箇所を何度も読み返しましたが、これまで福音書に登場した人物と比べてとても生き生きとした表現が多いなと思いました。
ひとつめは、奇跡で癒される人の名前が明かされていることです。イエス様には多くの奇跡物語がありますが、癒してもらう人の名前が出てくる箇所はほとんどありません。私が記憶しているのは、マルタ、マリアの兄弟ラザロをよみがえらせる物語くらいです。しかもバルティマイという本人の名前だけでなく父親の名前までが聖書に書かれています。
ふたつめは、イエス様が自分のそばを通るということを聞いた途端、他の人がどんなに止めても「私を憐れんでください」と叫び続けたことです。物乞いをしていた彼は、おそらく日常から「こんなところにいるな」「こんなところで騒ぐな」と虐げられていたでしょう。しかし今日は誰に何を言われようとも叫ぶことを止めませんでした。
みっつめは、イエス様から呼ばれていると聞くや否や上着を脱ぎ捨てて躍り上がってイエス様のもとに行ったことです。バルティマイが普段身につけていたのは、下着の他には物乞いのときに地面に敷き、夜には夜具となるこの上着だけだったと思います。大切な上着を脱ぎ捨て、これ以上うれしいことはないと躍り上がってイエス様のもとに行きます。
よっつめは、イエス様から何をしてほしいのかを尋ねられたときに、何の迷いもなく「目が見えるようになりたいのです」と答えたことです。これまでの人生に味わってきた苦しさの根源は目が見えないことだ、そこから解放されることで自分は自由になれるのだと、バルティマイの願いははっきりとしています。
いつつめは、目が見えるようになったバルティマイがそのままイエス様に従ったことです。イエス様は「行きなさい」と言われました。これは彼に「これからは自由に生きなさい」と言われたのですが、彼は何も迷わずにイエス様の道を一緒に進むという選択をしたのです。

今年の聖書日課はマルコによる福音書に沿って読まれてきました。イエス様が弟子たちと一緒に様々な町を巡り、神様の言葉を宣べ伝え、多くの人を癒す出来事が書かれていました。その中で多く書かれていたのが、イエス様と行動をともにしながらイエス様のことを理解できない弟子たち、イエス様に従いたいと思ってもなかなか決心できない人たちの記録です。
今日読まれた箇所のある10章の中でも、17節からは、永遠の命を受け継ぐためには持っているすべてのものを売り払ってイエス様に従いなさいと言われた金持ちの男が、そのままイエス様から去っていった話があります。また、先週の日課である35節以降には、弟子のヤコブとヨハネが自分たち二人をしかるべきときにイエス様の左右に座るような位につけてほしいと願い、イエス様から「何もわかっていない」と言われる場面がありました。自分の財産をすべて投げ出すことができなかった金持ちの男に対して、バルティマイは自分の全財産である上着を脱ぎ捨てて喜びながらイエス様のもとに走ります。「何をしてほしいのか」と尋ねるイエス様に、「イエス様に次ぐ地位につけてほしい」と願う弟子たちに対して、「制限だらけの今の生活から自由にしてほしい」とバルティマイはイエス様をまっすぐに見つめて願います。これまでイエス様と交わってきた人たちと、今日の登場人物であるバルティマイとは対照的な存在のように思えます。イエス様を求め、その呼びかけに喜んで応じ、即座に従っていく。まるでイエス様を信じる手本のような存在として書かれています。

私たちはどうでしょうか。教会に集っている私たちは毎日暮らしている中で多くの不安や悩みを抱えている。しかしその不安の多くは人生すべてを失うバルティマイのような大きな悩みではないと思います。そしてその悩みをなかなかイエス様に打ち明けることができません。

話は変わりますが、「すみっコぐらし」というキャラクターをご存知でしょうか。ほんわかとしたキャラクターで、私の息子の一人が気に入ってLINEのスタンプに使っています。教会学校に来る子どもでもこのキャラクターが描かれたお財布を持ってくる子がいますので、子どもにも人気があるものです。すみっコぐらしには「ここがおちつくんです」というサブタイトルが付いていて、これは日本人の「何となくすみっこが好き」という気持ちをテーマにしたキャラクターだそうです。電車に乗ればすみっこの席から埋まり、カフェに行ってもできるだけすみっこの席を確保したい、皆さんも気持ちはなんとなくわかると思います。

私たちはいつも何となく居心地のいい道端にちょこんと座ったように毎日を過ごしています。そんな私たちはバルティマイのように喜んでイエス様の進まれる道に従っていくことができるのでしょうか。

今日の聖書の中に答えはあります。イエス様は取り巻きの多くの人たちに囲まれていても、バルティマイの救いを求める声を聞いていました。悩みを持った人の声がどんなに小さくても、イエス様はその声を聞き分けてくださいます。イエス様は物乞いのみすぼらしい姿であるバルティマイを「私のところに連れてきなさい」と招きました。私たちがどんな姿をしていても、イエス様はご自分の前に招いてくださいます。イエス様は弟子たちに尋ねたようにバルティマイにも「何をしてほしいのか」と尋ねてくれました。イエス様はどんな人にもその人が抱えている悩みを聞いてくださいます。イエス様はバルティマイに「あなたの信仰があなたを救った」とバルティマイを癒してくれました。私たちがイエス様に向かって目を上げて悩みを打ち明ければ、イエス様は私たちを癒してくださるのです。ここが落ち着くからと、小さな悩みを抱えながらすみっこでうつむいていれば、何となく時は過ぎてもやもやはあっても自分を保つことはできるかもしれません。でも、そんな私たちをイエス様は気づき、呼び寄せ、悩みを聞いて癒してくださいます。イエス様の呼びかけに少し勇気を出し、顔を上げてイエス様に自分の気持ちを打ち明ければ、私たちは今いる道端からイエス様が進まれる道を一緒に歩いていくことができるのです。