2021年10月17日 説教 松岡俊一郎牧師

仕える者になる

イザヤ書 53: 4 – 12
マルコによる福音書 10: 35 – 45

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イエス様は30歳ぐらいの時に伝道生活に入られたと言われています。そしてその生活は三年で、三年後には十字架にかかって死なれました。この伝道の最初の時期に弟子たちは召し出されていますので、弟子たちはイエス様と三年間一緒に生活したと考えられます。三年も一緒の生活をしていると、弟子達の間には弟子としての自覚や誇りが生まれてきます。イエス様の周りにはいつも大勢の群衆が集まってきましたので、彼らは自分たちがイエス様の弟子というだけで、特別な気持ちになったでしょうし、彼ら自身の心にも自負心が生まれたでしょう。今日の個所の少し前、28節ではペトロは「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従ってまいりました」と、気負いさえ感じる言葉をイエス様に向かって語っています。イエス様にしても、32節をみると「イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子達は驚き、従う者たちは恐れた」と書かれていますので、それまでのイエス様とは少し違う雰囲気があったのでしょう。そして三回目の受難予告は、これまでの二回の予告以上に十字架にかかる様子を詳しく話されているのです。弟子にしろ、イエス様にしろ、十字架を前にした緊張感が伝わってきます。この緊張感と不安感の中でゼベダイの子ヤコブとヨハネが、「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」と願い出ているのです。それはこれから先のことに立ち向かうための勇気が欲しかったのです。それはただの傲慢さというだけでなく、その先で栄光が与えられるならば、この緊張と不安に耐えられる、場合によっては十字架の死もいとわないと思ったかもしれません。

イエス様が十字架にかかるためにエルサレムに向かっておられることを理解し始めた弟子達でしたが、やはり弟子達の理解はイエス様が目指しておられたこととはかけ離れていました。十字架はローマ帝国の処刑の仕方です。イエス様がそのような死を迎えられるということは、改革を起こすべき体制に対する敗北です。弟子たちはそのようなことを想像できませんでしたし、想像したくもありませんでした。

弟子達はイエス様が十字架にかかられることを受け入れたとすると、それは栄光の出来事としての十字架だけでした。確かに十字架は逆説的な意味で栄光の出来事です。しかし弟子達は、もっとストレートに十字架にかかるとその時に何かが起こり、権威、あるいは何がしかの栄誉を手にすることができると考えていたのです。ヤコブとヨセフは、山の上でイエス様の姿が変わり、モーセやエリヤと会話するという、それこそ栄光に輝く場面を目撃していましたからなおさらそのように考えたのでしょう。そのような栄光の姿をイメージして彼らは十字架を受け入れられたのです。そのように考えていたのは、二人だけではありませんでした。「ほかの十人の者たちはこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた」とありますから、他の弟子達も似たり寄ったりの考えだったのです。弟子達の無理解は依然として変わりません。しかしそれでも彼らは、以前とは少しは違っていました。それはイエス様が、自分が殺されると言われた先には、それについて行く自分たちにも危険が及ぶことを予想出来ていたことです。それを分かった上で、いやだからこそ彼らは栄光の座が欲しかったのです。栄光の座が得られるならば、自分たちも危険な道を歩もうと決心したのです。

そんな彼らに対してイエス様は「あなたがたは自分が何を願っているのか、分かっていない」と言われます。そうです。彼らは分かっていないのです。「このわたしが飲む盃を飲み、この私が受ける洗礼を受けることができるか」と問われても、あっさりと「出来ます」と答えていること自体、それが大変ないばらの道であることを分かっていないのです。弟子達が見ているところがあまりに人間的な功名心であり、名誉欲から出ていることに、イエス様は悲しみをこらえながら「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者とみなされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力をふるっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、一番上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」と言われました。弟子達の無理解とイエス様の目指すところの溝は埋めようがありませんでした。しかしイエス様は、弟子達に一緒に十字架にかかって死ぬことを望まれるのではなく、的を外すことなく別の道を示されるのです。この世において力をもつ人が、その力を用いて人を支配し、自分の権威を手に入れ保つ方法とは全く違い、むしろその権威を放棄し、力を放棄し、人に仕えるという予想もしないような仕方でこそ、神様に由来する栄光を手にするのです。それは神ご自身が、人となって十字架にかかるという仕方で人々に仕え、人々の罪を引き受け、罪をゆるされるからです。

旧約聖書の日課は「苦難の僕」と呼ばれているところで、イエス様の受難の姿を預言していると理解される箇所です。一般民衆にはイエス様の十字架の受難の姿は、自分の罪のせい、自業自得と映っています。しかしそれは私たちの罪のせいであり、神が私たちの罪を贖うために独り子を十字架につけ、そのような仕方で私たちの罪をゆるしてくださったのです。これは驚くべきことです。本来私たちの罪は自分でその罰を受けるべきです。しかし私たちの神様に対する罪は、ゆるしを請うことはできても自分自身で赦すことはできません。赦しはあくまで神様の側から与えられるものです。そこで神様は私たちに罰を与えるのではなく、独り子であり、神自身でもあるイエス様にその罪の罰を負わせ、そのことによって私たちに赦しを与えられるのです。

この十字架は人への最大の奉仕です。イエス様は弟子達にそこまでは求められません。「友のために自分の命を捨てること、これほど大きな愛はない」と言われますが、それを実践されるのはイエス様です。十字架にかかることはイエス様だけが引き受けられるのです。イエス様が求められるのは十字架にかかることではなく、他者に仕えるという生活をすること、そのように生きることです。死ぬのは、身代金として命をささげてくださるイエス様だけで十分です。私たちがなすべきことは、この世で当然とされている権威や地位への欲望と価値観、そのために力にすがること、それらを捨て去ることです。自分に役するだけの人生ではなく、自分を守るための命ではなく、他者に目を向けること、他者のために生きることです。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」と言われます。そしてその手本を自ら示してくださるのです。これは私たちの自然に湧き起こる感情やこの世の論理とは全く違う生き方です。信仰による大胆な転換が必要です。しかしそこから解放されて、他者に目を向ける時、他者のために生きる時、神様によって自由にされ、十字架によってゆるされた人生があるのです。