偉さを競うのではなく
マルコによる福音書 9: 30 – 37
自民党の総裁選が告知されました。やがては総理大臣になる人ですからマスコミも一政党の党首選挙という以上に大々的に取り上げ、4人の候補者も自信満々で自己をアピールしています。自民党員でない私は投票権もありませんから傍観者でしかありません。しかしこの権力の争奪戦は嫌だなという気持ちがぬぐえません。今の時代、自分の主張や良さをアピールすることは評価されます。個人的には私はこれがどうもなじめないのです。評価というのは自分でするものでは無く、人がするものだと思いますし、私の基本的な考え方の中には、謙遜とかつつましさが美徳とする考えがあり、自己アピールはみっともないという気持ちがあるからです。まさに昭和の価値観なのかもしれません。人には自分を評価されたいという願望があります。私にも認められたいという気持ちがないわけではありませんが、何が何でもという気持ちはありませんから弱いのかもしれません。人は認められるために、そして正当に評価され、高みに上げられることを求めます。そのために努力することはとても尊いことだと思います。人生はそのための歩みという面もあると思います。
イエス様は道の途中でした。それは十字架に向かう道であり、その途上でした。しかし、弟子たちはそのゴールを知りません。今日の福音書の冒頭でもイエス様はご自分が十字架かにかかるというゴールを示しておられるのですが、弟子たちはそれに気がつかない。気がつかないどころかそこには関心がなく、弟子どうしで「誰が一番偉いか」と議論をしています。ペトロはフィリポ・カイザリアで立派な信仰告白をして認められた経験から、自分が一番上だと思っていたかもしれません。10章28節を見ると、ペトロは自分が一番従ったと自負していることがうかがい知ることが出来ます。また、ゼベダイの子ヤコブとヨハネは、栄光をお受けになる時、自分たちを右と左に座らせて下さいと求めています。最初に弟子に選ばれた人たちと後になって選ばれた人では、古参、新参の関係があったのかもしれません。弟子たちの間でも、その日常生活の中で順位争いが生じていたのです。この順位争い、わたしたちの日常に見られる姿ではないでしょうか。
夕暮れになってカファルナウムというガリラヤ湖畔の町に着き、家に入られると、イエス様は弟子たちに、道々何を議論していたのかとお尋ねになります。しかし、弟子たちは答えられません。途中の議論によってお互いの心にわだかまりを持ったままなのでしょうか。それとも自分たちの議論の愚かさに気付いて恥ずかしくなったのでしょうか。
そのような弟子たちに対してイエス様は「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と言われ、さらにひとりの子どもを彼らの真ん中に立たせて「わたしの名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と言われたのです。いちばん先になりたい。これは私たちの人生の歩み方です。イエス様はそれ自体をすぐに否定はされません。しかし、その目指し方に、別の道を示されるのです。「仕える」ということです。もともとこれは給仕することを意味する言葉で、時にはそれは奴隷の仕事でした。上に立つものではなく、下に立つものとして、人に仕えるのです。これは当時としても全く非常識な考えだったでしょう。私たちの間でも普通のことではありません。しかし聖書はこの仕えることを特別のこととして、キリスト者の生き方、あるべき姿として描き出すのです。聖書が求める人の生き方は、自分の利益を求めることやそのために人を支配することではありません。むしろ人に仕えることが大切な生き方であり、そのような生き方をすることです。それはキリスト自身がそのような生き方をされ、自分がそのような生き方をすることがキリストを受け入れていくことになるのです。子どものように主イエス・キリストを受け入れることがキリストに従う生き方なのです。
このような生き方は私たち人の社会の中ではなかなか受け入れられない、通用しません。個人的にはそのような生き方をしたいと思っても、社会の仕組みの中に組み入れられたひとりの個人としては、その矛盾というか分裂を抱えてしまいます。聖書が語るような生き方と実際のわたしたちの生活の距離感に、私たちはいつも苦悩しているのです。それをどう克服したらいいのでしょうか。残念ながら、その折衷案や器用な処し方はありません。それこそ、あれかこれかのどちらかの選択が迫られているのです。私たちはあれもこれもと手に入れることを願います。しかしこと信仰に関しては、イエス様が「神と富とに兼ね仕えることはできない」と言われたように両方を得ることはできないのです。それでは、永遠の命を求めた富める青年が、イエス様のすべての持ち物を貧しい人々に施しなさいと言われた時、この青年が目を落として去って行ったように、この世のしがらみや論理、価値観で生きている私たちも主の前を去らなければならないのでしょうか。
そうではありません。イエス様が歩んでおられる十字架の道は、そのような私たちに仕え、私たちを受け入れるための十字架の道であるからです。先ほど、仕えるという言葉は給仕するという意味だと申し上げました。イエス様は十字架にかかられる前に弟子たちの足を洗われました。これもまた、この足を洗う行為もまた奴隷の仕事とされています。イエス・キリストはあらゆる姿を通して、仕える姿を私たちに示してくださいます。つまり私たちが完全な姿となって主に従うのではなく、まずキリストが十字架によってボロボロの姿となって私たちに仕え、私たちを招き受け入れてくださるのです。つまり私たちのこの世の生活と望まれる信仰生活の間の距離感、断絶、矛盾、ジレンマ、やぶれ、その苦悩を抱えた私たちを、主は十字架によって受け入れてくださるのです。フィリピの信徒への手紙2章に「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」と記されています。キリストが私たちのためにへりくだり、救いのために十字架に従順であったのです。あれこれ迷うのではなく、もがくのでもなく、私たちにはこの十字架を受け入れるほかにキリスト者として生きる道はないのです。使徒書の日課のヤコブの手紙は、悪魔にことごとく反抗しなさいとキリスト者の望まれる生活、生き方を書いています。しかし、主の前にへりくだるならば、神があなたがたを高めてくださると言っています。私たちが相応しいものとなるために自ら高めるのではありません。主イエス・キリストが十字架によってそのようなものとしてくださるのです。