2021年8月15日 説教 松岡俊一郎牧師

人を生かす生けるパン

ヨハネによる福音書 6: 51 – 58

説教の動画をYouTubeで視聴できます。

2013年に亡くなったやなせたかしさんの「アンパンマン」のことは、皆さんもご存じだと思います。小さい子どもたちに人気です。私がこのアンパンマンを見て衝撃を受けたのは、おなかがすいたり弱ったりしている子どもがいると、アンパンマンが自分の頭をちぎって食べさせるシーンです。このシーンは最初の頃、幼稚園の先生方には不評だったそうですが、子どもたちは大喜びで受け入れたようです。アンパンマンは仲間に助けてもらわないと宿敵バイキンマンにやられてしまう弱いヒーローですが、そこには愛と優しさ、自己犠牲がありました。その姿から、やなせたかしさんはクリスチャンだったという噂がネットで流れたほどです。カトリック多摩教会の前の主任司祭である晴佐久晶英神父は、クリスチャンであったと語っておられます。真相はさだかではありません。しかし今日の福音書の個所ではイエス様が「私は生きたパン、わたしを食べる者は永遠の命に入る」と言われていますので、アンパンマンとイメージが重なってきます。

さて、新約聖書の四つの福音書のうち、マタイ、マルコ、ルカ福音書は、イエス様の生涯を共通の視点で描いていることが多いため、「共観福音書」と呼ばれます。これに対してヨハネ福音書は、冒頭の「初めに言葉があった」などの特徴的な書き出しやイエス様の説教が多く書かれていて独自色を強く持っています。そのような違いの中にあって、五千人以上の民衆に五つのパンと二匹の魚を与えられた奇跡は、いずれの福音書にも書かれています。それだけでなく、マタイとマルコ福音書は四千人に7つのパンと数匹の魚を与えたという奇跡まで記録しています。これらの奇跡が人々にとってどれほどインパクトが大きい出来事であったかがわかります。

この奇跡を皮切りにイエス様は、民衆に与え空腹を満たしたのはパンであるが、そこにはご自分が生きた命のパンであるとの主張が込められていました。「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」イエス様は自らをパンと言い表すだけでなく、肉であると言われます。当然ユダヤ人たちは、肉と言われている以上、体を連想して「どうして自分の肉をわれわれに食べさせることが出来るのか」と反発します。反発するだけでなく66節には、イエス様のもとを離れた弟子たちがいたことが記されていますから、このイエス様の主張は人々の理解を得ることが難しかったことがわかります。初代教会の時代には、聖餐式をするキリスト者に対して、人の身体と血を食する野蛮な集団と非難されたことが思い起こされます。今日イエス様が語られた時点では、ユダヤ人たちはもちろんのこと弟子たちもまだ聖餐式のことを知りません。イエス様の十字架を前にしての最後の晩餐の席上の出来事が、聖餐式になったのですから、ユダヤ人たちはただ単純にイエス様の肉や血をどうして人が食べることが出来ようか非難するのです。イエス様はこのユダヤ人の反発を承知の上で「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。」と言われます。ここにイエス様のもう一歩進んだ言葉があります。イエス様の肉と血をいただいた者は永遠の命に至ることを言われているからです。すでに述べたようにヨハネ福音書は、ここで聖餐式を意識して語っています。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」と言われるように、聖餐式に表わされる肉と血による交わりによって、それを受ける者の内にイエス様がおられるのです。聖餐式が、イエス様の救いの象徴として行われるのではなく、口でいただくことによって、「共におられる」、「寄り添ってくださる」にとどまらず、神様の出来事として私たちはキリストと一体となるのです。パウロは律法のことを論じながら次のように言っています。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ2: 20)。

キリストと私たちが一つになるという事は、私たちにとっては信じられないほど不思議なことです。私たちは自分のことを卑下することが多くあります。自信がなく、能力がなく、すべてに見劣りがする人間だと思うことがあります。罪深い人間だと思います。そんな私たちにイエス様が寄り添ってくださるという事は、私たちはわかりやすく感謝なことなのですが、そうではなく、「私の中にキリストがおられる」というのは、にわかに信じがたいことではないかと思うのです。しかし私たちがそう感じたとしても、イエス様は自分の肉を食する者は、つまり聖餐を受ける者は、キリストと一つとなると言われるのです。それはキリストの神秘です。イエス様はみずから十字架にかかり、死ぬことによって人の罪を引き受け、人が神様に喜ばれるものとして生き、永遠の命に至るようにしてくださいました。そこには私たちが出来ることは何もありません。イエス様の弟子たちが十字架の前で裏切り、散り散りに逃げたように私たちにできることは何もないのです。しかしイエス様はただこのキリストの神秘を受け入れることだけを求められるのです。そしてキリストと一つとなった私たちには、もはや憂いはありません。憂いはキリストと一緒に十字架にかけられたからです。私たちにあるのはキリストにある平安と喜び、希望です。どんなに現実の生活が悲惨で悲しみに満ちていても、私たちの前には平安と希望があるのです。

パウロは使徒書の日課で、「今は悪い時代」と言います。私たちの時代も混迷と不安の時代にあります。新型コロナウィルスの収束が見えません。見えないどころか救急搬送を断られるというような医療の危機を考えると楽観視できませんし、困難は進行中と言えると思います。しかしそのような時代にあっても私たちは、キリストと一つとされた者として生きることが許されているのです。