2021年8月1日 説教 松岡俊一郎牧師

愛による平和

エフェソの信徒への手紙 2: 13 – 18
ヨハネによる福音書 15: 9 – 12

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私たちの間では、生活に格差があれば嫉妬や不満が生まれ、力関係のあるところには上下関係が生まれ、下に位置するものには常に不満がわき起こります。大抵の場合は、それを上手に納得し、あるいは解消し、気にしないようにするのですが、それらがこじれると些細な一言で傷つけ、傷つけられ、反感や恨みに思うことがあるのです。最近のSNSなどの批判や中傷は度を越していると思います。立場や意見の違いは対話とコミュニケーションによって乗り越えられると言いますが、私はそう簡単ではないと思っています。それぞれが人格的に成熟していれば、大人同士の対話としてそれが実現するでしょう。しかし人間関係には感情が入ります。この感情は理屈では簡単にコントロールできないと思うからです。このように考えると、はたして人は分かりあえるのだろうか、心の底から信じあえるのだろうかと不安になってしまいます。私は残念ながらそれは人の力では完全には克服できないと思っています。端から和解など求めていないことが多いのです。

最近素晴らしい讃美歌に出会いました。「新生讃美歌」というバプテスト教会で歌われている讃美歌の78番「善き力にわれ囲まれ」という讃美歌です。メロディーは違いますが、日本基督教団の「讃美歌21」の469番にも載っています。歌詞はディートリッヒ・ボンへッファーという牧師であり神学者でもある人が1944年のクリスマス、獄中から婚約者に送った手紙の中に書かれた詩です。ご存じの方も多いと思いますが、ディートリッヒ・ボンへッファーはルーテル教会の牧師でしたが、当時のドイツのルーテル教会はナチスに取り込まれていたなかで、彼は反ナチの抵抗運動・告白教会に加わり、ヒトラーの暗殺計画に加担したとして捕らえられ、1945年4月ヒトラーの自殺の直前に処刑された人です。処刑される4ヶ月前に書かれた詩ですから、彼は自分が処刑されることも覚悟していたと思います。その状況を知ったうえで読むと一層その深さが心にしみてきます。歌詞をご紹介します。

  1. 善き力にわれ囲まれ 守り慰められて
    世の悩み共にわかち 新しい日を望もう
    過ぎた日々の悩み重く なおのしかかる時も
    さわぎ立つ心しずめ み旨に従いゆく
    <くりかえし>
    善き力に守られつつ 来るべき時をまとう
    夜も朝もいつも神は われらと共にいます。
  2. たとい主から差し出される杯は苦くても
    恐れず感謝を込めて 愛する手から受けよう
    輝かせよ主のともし火 われらの闇の中に
    望みを主の手にゆだね 来るべき朝をまとう
    <くりかえし>

ここにはキリスト者の平和への基本的な姿勢が示されているように思います。世界は力と力のぶつかり合いの中で動いています。私たちの身近なところではそう感じませんが、国と国の関係は利害と力関係の緊張の中で成り立っています。そのような世界の中でキリスト者の平和への願いは大変小さいものです。無力と言ってもいいかもしれません。力関係で生きるのではなく、愛の関係で生きると言っても、個人の心の中では有効でも、政治や経済、社会など現実の中ではほとんど無視されてしまいます。しかし、世と対抗しようとすると、力による関係になってしまいます。力の関係に巻き込まれてしまうのです。巻き込まれないためには、私たちの心のよりどころを神様に求めるしかありません。神様に望みを置くのです。人は自己中心的な罪にまみれています。神様からのゆるしがあってもそれがなくなったわけではありません。神様から離れた時には、私たちはいつも罪の支配に巻き込まれるのです。愛は人が自ずから持てるものではありません。愛は神様のものであり、神様から与えられるものです。それは永遠であり、不滅です。

使徒書の日課のエフェソの信徒への手紙には、民族的な背景と宗教的な教えの強調の違いによる対立がありました。それはユダヤ教の歴史と教えから受け継がれてきた割礼と「規則と戒律ずくめの律法」です。律法を守ることを求めるユダヤ人キリスト者とキリストによってそれらの律法から自由となったと主張する異邦人キリスト者です。この二つのグループの対立は、いたるところで問題となっていました。パウロはそれぞれの立場を理解した上で、「キリストは、双方を御自分において一人の新しい人に作り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされた」と述べるのです。

ここで言われていることは、まず、双方がキリストによって新しい人とならなければならないということです。それではキリストによる新しい人とはどんな人でしょうか。それはキリストによって愛の人となることです。キリストによる愛の人、それはキリストの愛を生きる人です。福音書の日課の中でイエス様が語っておられます。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」そしてその掟とは「わたしがあなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」

まず求められていることは、キリストの愛の掟を守り、キリストによる愛の人として生まれ変わることです。これは私たちにとってたやすいことではありません。しかしそうであるがゆえに、イエス・キリスト自らが十字架にかかりその愛を実現してくださったのです。私たちが愛を作り出すのではありません。すでにキリストがご自身の命を献げることによって実現し、表わしてくださったのです。私たちはこの愛を自分の心のうちにいただき、この愛に導かれ、促されて生きることが大切なのです。キリストの愛とゆるしによってこそ私たちのかたくなな心は緩められ、溶かされ、愛を受け入れる心となります。

私たちの国も世界もこの愛の掟の真実を知りません。知っていたとしても不十分な理解の中で自分の都合のいいように引き取っています。世界は依然として力がすべてに有効であるとの信仰によって動いています。しかし、教会は聖書によってその真実を知っています。従って、教会にはこの真実を伝える責任があるのです。そしてそのためには、私たち自身が愛によって新しい人として生まれ変わり、愛に生きなければならないのです。私はこの言葉を傲慢な気持ちで言うのではありません。私たち自身がまだそのように生きていないから、教会がそれを伝える勇気を持てないでいるからそのように語るのです。どんなにそれが出来ていなくても、教会はキリストの愛の福音を伝える責任があるのです。

今日私たちは平和の主日として礼拝を守っています。教会はいつも平和を覚え、実現のために努力してきたわけではありませんでした。本当に残念なことではありますが、戦争に協力し、そのために祈り、それを推進し、勝利を喜んだ歴史があるのです。このことを懺悔し、悔い改め、キリストによって新しい人、新しい教会に、愛に生きるものに作り替えられなければならないのです。