2021年7月11日 説教要旨 松岡俊一郎牧師

何を願うべきか

マルコによる福音書 6: 14 – 29

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福音書記者マルコは、1章14節で「ヨハネが捕らえられた後」にイエス様の公の生涯が始まったと記しています。1章の冒頭で、ヨハネがイエス様の到来を詳しく述べている割には、ヨハネが捕らえられたことについてはシンプルに述べています。しかし今日の日課では、ここにきてヨハネの死のいきさつを詳しく述べています。
イエス様の癒しの奇跡や教えの評判が広がり、ヘロデ王のところにも聞こえてくるようになりました。このヘロデ王は、クリスマスの頃に出てくるヘロデ大王とは違い、ヘロデ大王の死後、領地が3人の息子に分割され、そのうちの一人、ガリラヤとべレア地方を受け継いだヘロデ・アンティパスのことです。イエス様の登場について世間では、今日の福音書によると、死なずに天に挙げられた預言者エリヤの生まれ変わりであるとか、登場が預言されていた「昔の預言者」であるとか、バプテスマのヨハネが生き返ったのだとか言われていました。ヘロデはイエス様のことを、自分が首をはねたヨハネの生き返りだと思っていたようです。当然そこにはヘロデの恐れがありました。ヘロデはバプテスマのヨハネを捕らえたものの、彼を「正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていた」(20節)のでした。しかしヘロデは彼の優柔不断な性格や権力への執着のゆえに、ヨハネの首をはねてしまったのです。ヘロデは自分の異母兄弟フィリポの妻へロディアを略奪し結婚したのですが、これをバプテスマのヨハネから批判され、それが理由で捕らえていたのです。聖書学者によると、これもフィリポではなく、あまり知られていないヘロデ大王の別の息子ヘロデの妻という事です。ヘロデが何人も出てきて訳が分かりません。いずれにしても世の権力者が自分に都合の悪い批判をする人を捕らえることは、現在もみられることです。この批判はヘロデだけでなく、妻へロディアの自尊心を傷つけ、その恨みの方が大きかったと思われます。
ヘロデの誕生の祝いの席でのこと、へロディアの娘が舞を踊り、その踊りがたいそう素晴らしかったので、ヘロデが何でも願い事を聞くと褒美を与えたのです。ヘロディアの娘は母へロディアに相談し、バプテスマのヨハネの首が欲しいと言わせるのです。へロディアの執念深さが感じられます。公衆の面前で約束した手前、ヘロデはそれを拒むことが出来ず、ヨハネの首をはねたのです。

マルコはヨハネの死を淡々と述べています。それだけにヨハネの死が、権力者の前でおもちゃのように扱われていることを示しています。ヘロデはヨハネの死を良しとしない思いを持っていましたが、世間体を考えて自分の約束を反故にすることが出来ず、へロディアの策にはまってしまいました。これはイエス様の裁判の時のローマの総督ピラトと似ています。ピラトもまたイエス様のことを自分では死に値しないと考えていたのに、ユダヤ人たちの声に押し切られて十字架につけることを許すのです。
マルコにとって、ヨハネは救い主イエス様の先駆者です。したがってヨハネの死も、イエス様の死を示していると言っていいでしょう。イエス様の死も、ユダヤ人とローマの総督との間で、この世の論理、感情、憎悪、駆け引きの材料とされてきたのです。イエス様を救い主と認めることが出来ず、むしろそれを拒み続けたのです。本来、救い主の到来を待ち望んでいたはずなのに、実際に目の前にイエス様が現れても、むしろ自分たちの邪魔な存在として扱うのです。本来求めるべきものを求めず、目の前の利害に終始したのです。本来願うべきものと、実際に行う事の間に乖離があるのです。人は欲しないことをしてしまう。私たちは人の死を願うということはないにしても、本来願うべきことと実際にしてしまう、選択を誤ってしまうことはあるのではないでしょうか。そのために後悔することも多いかもしれません。

ヘロデやへロディアが願っていたこと、しがみついていたことは、自分たちの地位、メンツ、権力、財力だったでしょう。ユダヤ人たちも、本来救い主を待ち望んでいたはずなのに目の前の生活を維持すること、権力者たちは地位や名誉を守ることに必死だったのです。その結果、バプテスマのヨハネの死、イエス・キリストの十字架と誤った選択をしてしまったのです。もっとも、イエス様の十字架の死は、父なる神様が供えられた救いの最終手段であったのですから、あながち間違いとも言えないのですが、しかし、ユダヤ人たちの悔い改めがあれば、救いは別の形で訪れたはずです。

イエス様は、神の義とその国を求めなさい、と言われます。私たちが求めるべきことは、神のご支配です。私たち人間の営みの中に神の愛の支配が実現することです。ところが私たちが生きている世界は、不正や不正義、差別や暴力、虐待や貧困が蔓延し、神の愛の支配とは程遠いものになっています。人は選択の間違いを犯します。平和と安定を願いつつも、様々な駆け引きやしがらみによって誤りを犯してしまいます。また国際関係においては、主義主張の違いによって誠意や良心が通じないことが多くあります。理想通りにはいかないのです。しかしそれでも、私たちは落胆せずに、みことばに導かれつつ、弱く縮こまっている心を信仰と聖霊の力で神の愛の支配が実現するように求めていくべきです。確かに私一人の力ではどうしようもないと感じられます。それは神様もご存じです。そのために信仰の交わりと教会を立ててくださいました。教会もその力があるとは思えませんが、歴史の中で迷いを繰り返しながら、教会も神の国の実現に努力し続けているのです。みことばの中に込められている神様の意思を私たちは聞くことが出来ます。その意味で神様のご支配を実現する務めを私たちは持っているのです。