何も持たずに、すべてを持って
マルコによる福音書 6: 1 – 13
ルーテル学院大学・神学校チャプレンの河田です。
今回は松岡俊一郎先生の病気の回復を願いつつ、この大岡山教会で講壇を預からせていただくことになりました。今日の礼拝も変わらずに、み言葉に聞き、み言葉に支えられる喜びを分かち合いたいと願います。
さて、私が働くルーテル学院のチャペルには重さ1トンにもなる大きな木彫りのレリーフがあります。
このレリーフのテーマは派遣であり、中央にイエス・キリスト、その周りにはパンやスープを配る12人の弟子たち、そして左下には「派遣」の文字が刻まれています。
そして特徴的なのは、中央に彫られたイエスの手には、十字架に打ち付けられた際の大きな釘跡があるのです。つまりこのレリーフのイエスは、その十字架の赦しと復活の命をもって、自分の弟子たちを派遣しているのです。
ルーテル学院の学生は、卒業後に病院や施設など対人援助職に就くことが非常に多いのです。学校で学び、専門的知識を身につけ、そのように助けを必要とする人々のもとに遣わされていく。
学校の学びを終えて、その働きを自分のものとしていくときに恐れや不安も起こることでしょう。その時に何が大切なのかを示しているのがこのレリーフです。イエスがこの自分を遣わされる。キリストがその赦しと新しい命の約束をもってこの自分を遣わされる。
まだまだ十分ではないこの自分であっても、この十字架と復活のイエス・キリストに遣わされていることがすべてである。
そのことをチャペルのレリーフが語り続けているのです。
そしてまた、教会に集う私たちもそうです。
私たちもこのレリーフに表されているように、主の弟子としてこの世に遣わされています。この礼拝からそれぞれの生きる場所、生活の場所へと遣わされる。その時にまた私たちはたくさんの人たちと出会って、その人たちと共に生きていく。ですから、今この礼拝に集う私たちもまた、十字架の釘跡を手に持つ、主の赦しと恵みの上に遣わされていることを覚えたいのです。
そのことを覚えながら本日の福音書を共に分かち合いたいと思います。特に本日は日課の後半6節からの個所を中心にして共に聞いてまいりましょう。
この個所は、故郷であるナザレで受け入れられなかったイエスが、ご自分の弟子たちを呼び寄せ、宣教と奉仕に遣わされる場面です。
家族や地域に限定されることなく、全世界の人々の救い主であることがいよいよ示される中で、イエスはご自分の弟子を派遣しようとなさる。
その際にイエス様が弟子たちに授けたものと、持って行くべきでないものがあげられています。
まずは持って行くべきではないものとして、次のようにあります。
8節と9節を読みましょう。
「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして下着は二枚着てはならないと命じられた。」
イエスは派遣する弟子たちにパンや袋やお金をお与えになりませんでした。ちなみに特にここで言う袋とは生活必需品をいれるものです。この当時の人々は旅する際、必ず袋を肌身離さず携帯していたのです。
要するにここに記されているのは、この世を生きていく上に必要と思われるものばかりです。しかし、イエスはあえてこのようなものを手に持つなと言われるのです。
そして続けて次のようにあります。
「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。しかし、耳を傾けようとしないなら足のほこりを払って出ていきなさい。」
イエスは、出かけていった土地の、出かけていった家に厄介になれと言われているのです。そして受け入れてくれないようなら、いつまでもそこに留まらずまた次の場所に向かえと言われているのです。
出かけていく者が何も手に携えず、すべてその出かけ先にお世話になること、食事から宿まで迷惑をかけることは、なんとも図々しいことであろうかとも感じます。一般的にはこのようなことは到底受け入れられないでしょう。
しかし、イエスは、あなたがこの世の生活で必要と思うことをまず置いていけ、むしろそのような必要は出かけ先で世話になれと言われるのです。
一体どういうことでしょうか。
その意味として、派遣される者は、この世の事柄に縛られてはならない、ということでしょう。私たちは生活する上で衣食住を欠かすことはできません。それらは私達にとって大切なものであることは確かです。しかし、私たちは時折、この衣食住にあまりにも心捕らわれ、何をするにもまず先にそれが気にかかってしまうことがあるのです。そうなると私たちに必要な衣食住が、私たちの不安の材料になってしまうことになります。
まだ足りないのではないか、不充分ではないか、という心配から、もっと良いものを、もっと充実させたい、とさらなる欲望へ心が縛られてしまうのです。そして本来遣わされていくその使命が後回しになってしまうこともあるのでしょう。派遣される者は、そのような不安に支配されてはなりません。
だから、「イエスがここで何も持っていくな」ということは、遣わされる際にこの世における日々に関しての不安や心配に縛られるなということを意味していると考えられます。
そして、遣わされたらどこかの家にとどまりなさいとイエスは言います。
これは主に遣わされる者はけっして一人ではないということ、主の弟子は互いに協力しながら、補い合いながら、主の宣教に当たるのです。牧師が信徒の皆さんと共に宣教を行っていることは、このことを示しています。牧師も一人では決して望むべき働きができないのです。私たちは互いにそうなのです。
ちなみに私はルーテル学院のチャプレンとして三鷹に来るまでは山口県と島根県の4つの教会1つの集会所を兼牧していました。日曜日に礼拝ができないので、平日の水曜日瀬戸内海に面した教会から、中国山地にある集会所に車で出かけます。夜8時に礼拝をして、夜10時頃出発しますが、その時に向かうのは瀬戸内川ではなくて、山の向こう日本海側です。誰も住んでいないとある教会の牧師館に到着するのは夜中の12時前です。
そこで一泊して次の木曜日の午後にその教会で礼拝を行うのですが、私が夜中に到着するに合わせて、いつもちょうどいい湯加減のお風呂が沸いていました。
ある教会員の方が私の来る水曜日には牧師館を掃除して、私の到着に合わせてお風呂を沸かせておいてくださったのです。机には夜食と合わせて「お疲れ様です」との小さなメッセージも欠かさず添えられていました。
数年前に、この教会は残念ながら閉じてしまうことになりましたが、私はこの教会で働かせてもらっている時、確かに牧師は牧師としての役割を担うが、決して独りで働いているのではないという思いを強く感じたものです。出かける者もそこで待つ者もそれぞれが主に用いられているのです。共に主に遣われた者としての働きを担って、互いに必要を補いあっているのです。
そのように主に遣わされる者は決して独りではない。どこに行こうとも共に働く者がある。その働きを支えてくれる者がある。その者と共に働くということが何よりも大切だとこのイエスの言葉は教えているのです。
では、続いてイエスが派遣する際に弟子たちに授けたものを考えてみましょう。7節には次のようにありました。
「その際、汚れた霊に対する権能を授け、」
イエスは他に何も持たなくても、その汚れた霊に対する権能だけは持って行くようにされたのです。
聖書を読むとこの時代の人々は、病気や突然の不幸、人が受けるさまざまな悩み苦しみ、そのようなものはすべて汚れた霊の仕業だと考えていたことが分かります。
汚れた霊は神に相対するもので人は太刀打ちできません。ですから当時に人々はこのような汚れた霊に対しては、避けること、閉じ込めること、そのようなことしかできませんでした。
多くの病人や障がいを持つ者、不幸を背負い込む者、これらの者たちはむしろ人々から離され、孤独へと追いやられていたのです。
ですからイエスはこの時、どのような困難や誘惑にも必ず打ち勝つことのできる神の御力を弟子たちに授けられたのです。
でもそれは病気を癒す神的な力を得たということではないでしょう。イエス・キリストがそうだったように、弟子たちも病や苦しみにある者たちへと歩み寄っていったのです。
病気で苦しんでいるならば、その気持ちに寄り添い、話を聞き、その手に触れ、一緒に祈ったということでしょう。そのことによって確かに病気が癒され困難から解放される者たちもあったでしょうが、何よりも大切なのは、どのような辛い状況にあっても一人ではない、病気や様々な困難、そのことを一緒に受け止めてくれる者がいるということ、それが何よりも大きな慰めであり、励ましであり、生きる力になっていたことでしょう。
それが悪霊を追い出す力です。
何故ならばイエスご自身も数多くの奇跡を行いましたが、病気を治すことよりもむしろ、病気ゆえに悲しむ心に寄り添うことをご自分の働きとしてきたからです。たとえ困難な状況にあってもあなたは決して独りではない。私が共にいるということを教え、ご自分の生涯を通して徹底的に示されたことを私たちは知っているのです。
悲しむ者、傷み苦しむ者には悪霊ではなく、主が共にいるべきなのです。そのことを証しする生き方が「悪霊を追い出す力」となります。
だから私たちは自分の手に何も持たず、ただ主イエス・キリストを手に携え、遣わされていくのです。それがすべてなのです。言い換えるならば遣わされる私たちを通して働かれるのは主イエス・キリストと言えるでしょう。
ある教会で礼拝堂に「サーバントエントランス」という看板が取り付けられていることを聞きました。
日本語にすると「奉仕者の入り口」です。
この看板が礼拝堂のどの部分に取り付けられているのかというと、それは礼拝を終えて、皆が帰ろうとするときに必ず通る場所。つまり礼拝堂からの出口に取り付けられているのです。
礼拝を終えたものが頭の上に必ず見ることになるだろう、その看板。「奉仕者の入り口」。それは主の弟子として、今、礼拝から遣わされていく。そのことを表しています。
十字架と復活の主が共にあるという約束を受け、この世のものに頼るのではなく、主の力に頼りつつ、今日もまた遣わされていく。そのような礼拝がこれからもなおここ大岡山教会で続けられることを心から願います。
あなたは何も持たなくてもいい、私があなたと共にある。あなたを遣わす私があなたを通して働く。それがすべてである。
遣わされる者として、主のみ言葉に励まされていきましょう。