2021年6月13日 説教要旨 松岡俊一郎牧師

神の国は成長する

マルコによる福音書 4: 26 – 34

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聖書の中では動物や植物にたとえたお話がたくさん出てきます。一番有名でなじみがあるのはブドウでしょう。聖書の時代にはブドウ畑が広がっていたと思われます。今日の福音書には「からし種」が登場します。からし種は私たちにはあまりなじみがありませんが、英語ではマスタードシードと訳されていますので、「ああ、マスタードのことか」とわかります。「からしだね」は信仰を表します。そしてそれは大変小さなものでも、やがては鳥が巣を作るほどに成長するとして、信仰の成長を表しています。大岡山教会において、週報や信徒の群れに「からしだね」と命名されたのは、そのような信仰の姿と願いを込められたのだと思います。

今日の福音書では、イエス様が神の国について語っておられます。神の国は場所ではありません。もちろんこの地上にそのような場所はありませんから、それでは死んだあとに行くところかというと、そういう意味での場所でもありません。もちろん死んだあとに行く場所は天国と約束されていますので、それを神の国と言っても間違いではないのですが、むしろここでの神の国は、神様が支配されるところという意味です。ですから、もし生きている私たちが神様の御支配を受け入れるのであれば、私たちの間にも神の国は存在するのです。

確かに私たちの住む世界は、神の国というにはほど遠いと言わざるを得ません。神の国であれば、愛がこの世を支配しているはずです。しかし現実は、争いや権力闘争、不正や差別、悲惨な事件が後を絶たず、今は世界的なパンデミックで命の危機に脅かされています。しかし、それでも聖書は神の国は近づいた。また実現したというのです。

まず、最初の譬では、種蒔きのたとえが語れます。人が土に種をまいて、人はその世話をするが、それがどうして成長するか知らないと言われます。土はひとりでに実を結ばせるのです。人は世話をし、成長を見守り、収獲の時に刈りいれるのです。しかしどうして成長するか、人は知らないのです。今月の幼稚園の年長クラスの暗証聖句は「成長させてくださったのは神です」というコリント書3:6の言葉です。聖書は、すべては神が成長させてくださることを教えるのです。神の国も人の知らないところで成長すると言われるのです。人が知らない所で、また知らない仕方で成長するのですから、私たちもそれに気が付かないのです。その成長の仕方はというと、それが次の譬です。

神の国はからし種のようなものだと言われます。イエス様は種の中でも一番小さかったからし種を神の国に譬えられているのです。そして、この種はやがて成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほどに大きな枝を張ると言われるのです。

この二つのたとえを考えてみると、種は人知れず成長する。そしてその大きさは想像を絶するほどのものだということです。そして、神の国がそのようなもの、神様の支配はそのようなものだと言われるのです。神の国の働きは、植物の成長が目に見えないのと同じように、すぐにそれとわかるような仕方で働くのではありません。もちろんそこには、農夫が手入れをするように人の働きがありますが、その背後に神様の目に見えない、人が悟ることが出来ないような働きがあるのです。そしてやがてその働きは、人が想像しなかったような実りを生み出すのです。

私たちは自分の信仰をどのように考えているでしょうか。若いうちは、自分で考え、決断し、行動できる時には、多少の失敗はあっても、それをもろともせずに自分に自信を持つことができます。信仰も同じです。若いうちは神様を情熱的に信じて、教会生活もその若さを生かして積極的に関わることができます。しかし人はずっとそのままで行けるかというとそうではありません。たびたび挫折し、絶望感にさいなまれます。時にはそれまでの情熱と力強さのギャップの激しさに、心が折れてしまって、教会を離れてしまうことがあります。また、挫折を感じないまでも、仕事や家庭の忙しさに追われてついつい教会から足が遠のき、ある種の後ろめたさや悔いを感じながらも、信仰から離れてしまうことがあります。しかし、年齢を重ねていくうちに、そしてその月日の中で起こる挫折感や絶望感を上手に受け入れていく時には、自分の意思で信じる、自分の熱意で奉仕するというような「自分が、自分が」というような気負いが消えて、信仰にしても奉仕にしても神様の導きの中で養われ動かされていると感じることが出来るようになります。私はこれが神の国の姿だと思うのです。「自分が」、というように自分が前面に来る信仰は、それはそれで力強く素晴らしい面をたくさん持っていますが、神の国の支配は、もっと穏やかに、ひっそりと、じんわりと人を包み込み、押し出していくと思うのです。若いころには、若さに溢れる輝きがあります。しかし年齢を重ねてからの信仰は、たとえ自分は何もしなくても、何もできなくても、神様がその方の内に働いて下さって輝きを与えてくださるのです。

信仰は自分が何かをすることではなく、人の手によって作り出すものでもなく、自分自身を神様のみ手にゆだねることです。パウロはコリントの信徒への手紙第二12章9節でこう言っています。「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」

私たちに生きる時代は、政治的にも経済的に、自然環境においても、暮らしにおいても決して楽観視できるような時代ではありません。むしろ憂慮する時代に生きています。それは時には私たちの弱さ、小ささ、無力さを嘆くような状況があります。しかし、成長させてくださるのは神です。神様にはできないことはありません。ですから、私たちが神様により頼む時、私たちは自分自身の弱さや足りなさを嘆く必要はありません。むしろ私たちは神様の働く場所、神の国として輝き、実り、多くのもの守り、励まし、宿らせることが出来るからです。