2021年6月6日 説教要旨 松岡俊一郎牧師

神の御心を行う者は家族

マルコによる福音書 3: 20 – 35

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聖書の時代は、今ほど科学も医学も進んでいませんでしたから、病気や障碍など原因がわからないものは悪霊の仕業と考えていました。今日の個所でもわかるように、イエス様の不思議な業も、その真相がわからないと悪霊の仕業にしていたのです。悪霊とは何でしょうか。ホラー映画の多くには必ず悪霊が登場します。それは実に変幻自在でおどろおどろしいものです。しかし悪霊がそのような姿をしているならば、かえってわかりやすいと思います。私はむしろそうは思いません。悪霊はすぐにはそれとわかるような姿をとっていないのです。そして悪霊は外からやってくるだけでなく、すでに私たちの中に存在しているように思います。もちろん私たちが悪霊に支配されているとは思いません。しかし、私の中で善なる霊と悪霊とがせめぎ合っているように思います。善人がいつも善人とは限りません。悪人がいつも悪人とは限りません。その時、その人の中で悪と善との闘いが起こりせめぎ合っているのです。その意味で私たちは善であり続ける強さを持ち合わせないのです。

さて、今日の福音書の日課は、イエス様の身内、母マリアや兄弟姉妹たちがやって来て、イエス様を取り押さえようとした出来事が、律法学者とのベルゼブルについての論争を挟んで語られています。

イエス様が家に帰られると、群衆もまた集まって来て、イエス様は食事をする暇もありませんでした。そこにイエス様の身内の人たち母マリアや兄弟姉妹たちがやって来て、取り押さえるというのは変な表現ですが、要は「あなた何やってるの、もうやめなさい」といさめて、群衆から引き離そうとしたのでしょう。身内が世間体を気にした行動です。立派な教え、不思議なわざは人々を驚かせましたが、民衆はいつもイエス様のことを好意的に見ていたわけではありません。中には「あの男は気が変になっている」と噂する人々もいたのです。家族としては気が気ではなかったのでしょう。おまけにそこにはエルサレムから来た律法学者たちもいました。イエス様の活動の場所は、大都会ですべての中心であったエルサレムから遠く離れたガリラヤでした。エルサレムから律法学者が来たとなると、それは村にとってはひどく大きな存在でした。家族としては、ますます目立っちゃいけないと思ったに違いありません。

福音書の日課では、ここから律法学者とイエス様の論争が始まりますが、私たちはまず家族とのやり取りを見てみましょう。31節から35節に書かれています。母マリアや兄弟姉妹がイエス様のことを捜していることが伝えられます。すると「わたしの母、わたしの兄弟とは誰か。」とショッキングなことを言われます。イエス様はカナの結婚式でもぶどう酒がなくなった時、そのことを伝えたマリアに「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。」と言われたことがあります。イエス様はお母さんに対してずいぶん冷たい態度をとっておられるように感じます。しかし、そう決めつけるのは正しくありません。イエス様もその教えから親を大切に思われているのは間違いありませんし、十字架の上では、母マリアと愛弟子ヨハネに対して「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。」「見なさい。あなたの母です。」と、母のことを一番愛していた弟子ヨハネに託されているのです。むしろここでは、「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」と信仰による結びつきを強調されているのです。家族であるということで、イエス様を見誤って黙らせようとしたり、押し隠そうとしたりするのではなく、イエス様を神御自身の御心を実現されるお方として受け止めることが大事なのです。

さて、律法学者との論争に目を向けましょう。20節からです。
律法学者たちは、イエス様が行われていた癒しの業に対して、これを「あの男はベルゼブルに取りつかれている。」言います。ベルゼベルとは悪霊の頭という意味です。このことから、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と批判していたのです。断罪し、悪い評判を与えようとする律法学者たちにイエス様も反論されます。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、滅びてしまう。」もし自分がサタンであるならば、そのサタンの頭がサタンを追い出すという奇妙な事が起こる、それでは内輪もめではないかと、律法学者たちの批判の矛盾を突かれるのです。
さらに27節で譬を語られますが、これは少しわかりにくいものです。まず「強い人」とは悪霊の頭です。「家に押し入っていく」のはイエス様です。家財道具とは人々のことです。「奪い取る」とは解放することです。つまり、人々を解放するためには、悪霊の頭と戦い、縛りあげなければならないのです。そしてそれをしてくださるのはイエス様ご自身です。イエス様が悪霊を追い出されるのは、悪霊の頭の力によってではなく、聖霊の力によるものです。律法学者たちはそれを悪霊の力と断定しているのですから、聖霊を悪霊と言っているのと同じなのです。これが聖霊を冒涜することです。彼らはイエス様が悪霊を追い出される力を持っていることは認めていました。しかしそれがどこから出ているか見誤った。彼らがもしイエス様にそれを尋ねているのであれば、それは問題なかったかもしれません。しかし彼らは断定した。神さまの力の前で謙遜になるのでなく、傲慢にふるまったのです。そこで「聖霊を冒涜するものは永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」と批判されたのです。

今日の福音書の日課に登場してくるイエス様の身内と律法学者に共通することは何でしょうか。それは共にイエス様を見誤っているということです。身内たちは、イエス様が家族という身近な存在であるために、かえってその真の姿を見ることができませんでした。律法学者たちはイエス様の奇跡そのものは認めてはいましたが、それを悪霊の頭の力としていたのです。イエス様の力を認めることが自分たちの権威を失墜させると考えていたのでしょう。私たちは理解できなこと、素直に受け入れられないことを否定する傾向があります。分からないことをあり得ないとするのです。しかし、これは傲慢な態度です。分からないことは、分からいないことの前に頭を垂れるべきです。神様は人の理解を超えたお方です。そのお方の前で、人は頭を垂れるべきです。信じられないということは素直な態度です。しかしそれを否定や拒否することは厳に慎むべきことです。むしろ悪霊のかしらを追い出す力を持つイエス様が、私たちの弱さに寄り添い、イエス様自ら悪霊と闘ってくださり、私たちにも力を与えて励まして下さるのです。