私たちのために見えなくなる
ルカによる福音書 24: 44 – 53
私たち大岡山教会ではこの二か月足らずの間に4人の兄弟姉妹を天国に送りました。親しい方を天に送ると、自分たちの死を考えざるを得ません。特に高齢の方や難しい病気を持っておられる方は、明日は我が身と人ごととは思えない気持ちになるのではないかと思います。私も四人の方のお葬式の説教をするときも、そのような気持ちで臨みました。しかしそこで感じたことは、恐れや不安ではありませんでした。聖書が約束している私たちの死後の世界への希望であり、そこにある平安でした。私たちの死の後には、イエス様が用意してくださっている場所があり、イエス様がそこで手を広げて待っていてくださるという事です。そしてそこには苦しみや悩みはなく、絶対的な平安があるのです。この約束を信じる時、私たちは神様の世界に入ることは、希望以外にないのです。私にとってお葬儀は悲しみの時であると同時に、亡くなられた方と共に神様の国に入るその約束を確認する時と言っていいかと思います。だからこそ別れの悲しみ、寂しさがありながらもそこには感謝と平安もあるのです。
さて、聖書の時代の人々は神の世界を「天」という言葉で表現しました。神の住まいは天にあり、地上を神の足台と表現しました。天と地、と考えると、当然それは、天は上にあり、地は下にあると考えます。空間的な位置関係があります。イメージとしても登ったり降りたりというイメージになってしまいます。ヨハネの黙示録は地上の世界が滅んで、新しい世界が完成するというところで終わっています。それを「新しい都が天から下ってきた」と表現しています。やはり神の世界は天で上にあり、人間の世界は下なのです。しかしこの場合は、人間の世界が地上に再生されるのではなく、すべてが神の世界に変えられ、神の世界に復活した聖なる民が入るという約束になっています。
今日は主の昇天日です。復活されたイエス・キリストが天に上げられたことを覚える日です。復活のイエス様は、弟子たちの目の前で天に挙げられたのです。大変不思議な出来事です。現代の私たちにはどのように受け止めていいかわかりません。ありのままイエス様が弟子たちの目の前で天に挙げられて行ったと受け止めるのか、それともなにがしかの象徴的な表現と受け止めるのか、いろいろと考えられます。しかしそれがどのような状況であったかよりも、その昇天の出来事が私たちに何を伝えようとしているのかを考えることが大切です。
もともと昇天だけでなく、復活を理解することはなかなか難しいことですが、復活は場所と時間を超えた出来事です。残された弟子たちには時間と場所がありましたが、しかし復活されたイエス様には場所も時間もありません。だから同時刻に全く違う場所に現れ、家の壁をすり抜けて入ってこられるのです。従って昇天ということも、場所的に地上から天に昇って行かれたというのは、正しい表現ではありません。むしろ、昇天とは、キリストが地上の生活から神の右の座に帰られた。本来、先在のキリストとして神と共におられたキリストが、イエスとしてこの地上に来られ、昇天によって神と再び一つとなられたことを言い表す表現なのです。
では、これはどういう意味があるのでしょうか。
イエス様はヨハネ福音書14章で「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」と言われています。つまり、イエス様が先に行って、神のみもとで私たちの場所を用意してくださる。昇天はその始まりと言っていいのです。イエス様は「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことが出来ない」と言われました。つまりイエス様の昇天は、イエス様が父なる神と一つになられるだけでなく、私たちが父なる神と一つとなる道を完成するためでもあるのです。
さらにイエス様は天に昇られるとき弟子達に言われます。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリヤの全土、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」昇天は、神様と私たちが一つとされた完成の時です。しかし、それは人々に伝えられなければなりません。伝えられなければ自然にわかることではないからです。そこで弟子達の力が必要となります。しかし弟子達には、それを知る力も伝える力もありませんでした。弟子達は、赦されたとはいえ、イエス様を裏切った時の姿のままだからです。そのような弟子達が、イエス様の十字架と復活、そして昇天の証人になるには聖霊の働きが不可欠なのです。聖霊の働きがあって初めて証人となることが出来るのです。
この証人としての務めは私たちにも与えられています。こう言うと、いや私たちはイエス様とお会いしたことがない、十字架の死も見ていない、復活も昇天も目撃していないと言いたくなります。しかし、イエス様は、時間と場所の垣根を取り払い、神様の世界と私たちを一つにして下さいました。イエス様は時間と場所を超えて、今の私たちと共にいてくださるのです。私たちは直接に会うことはできません。イエス様に出会うのは、聖書のみことばを通してです。み言葉を通して聖霊の働きを通して私たちは信仰によってイエス様と出会うのです。ですから、聖書によって示されていることは、今私の目の前で起こっていることであり、わたしに起こっている出来事なのです。だからこそ私たちはイエス様の証人となることが出来るのです。