2021年5月9日 説教要旨 松岡俊一郎牧師

愛し合う - 主イエスの掟

ヨハネによる福音書 15: 9 – 17

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イエス様のご生涯は、ユダヤ教の律法主義との闘いでした。ユダヤ教はモーセ五書とよばれる創世記から申命記までを律法と呼び、それに加えてその解説や言い伝えなどを含めたものを広い意味での律法として守るよう人々に厳格に求めていました。当時のイスラエルは宗教社会でしたから、人々はそれらの律法に縛られ、制約されて生活していたのです。しかし、イエス様は律法が本来持っている中心的なメッセージに着目され、いわゆる広い意味での律法を厳格に守り、その制約の中で生活するという律法主義からは自由な教えを説かれていました。たとえば、弟子たちが安息日に麦の穂を摘んで手でもんで食べていると、ファリサイ派の人々は「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか」と糾弾します。穂を摘むということが安息日に禁じられていた労働に値するとしたのです。しかしイエス様はダビデの例をあげながら、「安息日は、人とのために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と反論されたのです。縛られた世界の中で、イエス様の自由さが光ります。

今日の福音書の日課にも、掟とか命令というような硬い言葉が見られます。そしてそのような流れの中で「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と言われており、その前には「わたしがあなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」と言われていますから、まさに、愛の実践は友のために自分の命を捨てることということになるのです。この言葉の前では誰もがたじろいでしまうのではないでしょうか。確かに、実際に人の命を救うために自分の命を顧みず行動される方がおられます。その人たちが愛を実践するためなどと意識をされてはいなかったと思いますが、まさに友のために自分の命を捨てる愛を実践されたのです。いのちの価値に優劣をつけることはできませんが、それらの行為は誠に尊いことで称賛に値すると思います。しかしそれは誰もができることではありません。

しかし、人はいつも他の人のために生きることはできませんし、聖書もそのようには求めていないのです。最近、特によく聞かれるのは「自分を大事にする」という言葉です。使い方によっては、この言葉は大変利己的な響きをもってしまいます。しかし、そうではないでしょう。むしろ与えられた命、一回限りの人生、人生という限られた時間、与えられた能力や可能性などを生かすような生き方をしよう、人に左右されるのではなく、人に追随するのでもなく、自分自身の生き方を見つけ生きようということだと思います。それは健全な個人主義です。しかし、私たち日本人の間ではこの個人主義というものが偏って受け取られ、自分勝手だとか、周囲の調和を乱すとして批判され敬遠されてきたのです。その結果、自分自身というものを確立することができず、人の顔色をうかがい、我慢を繰り返し、社会の流れに押しつぶされている人が急増しているのです。だからこそ今、「自分を大事にする」ことが声高に叫ばれるのです。

聖書には確かに自己中心を罪とし、「自己犠牲」ということが底流に流れています。しかしそれはまず神様との関係、神様の事柄として考えなければなりません。そうしないと愛を律法として、クリスチャンであるための新たなルールとしてしまうからです。愛も自己犠牲も他者への奉仕も、神様の愛から生れるものであり、そこから生まれ出るはずのものが、いつでも律法主義の一命題へと変質するのです。

聖書の原文であるギリシャ語には、愛と訳せる言葉が三つあります。利己的な愛をあらわすエロース、神の愛をあらわすアガペー、友情をあらわすフィリアの三つです。
その中でも聖書はアガペーを用いています。そこで注目に値するのは、このアガペーがギリシャ語の旧約聖書には20回しか使われていないのに、新約聖書では116回も使われているのです。アガペーは裏切ることのない真実の愛です。弟子たちはイエス様の十字架によって真実の愛とはどんなものかを目の当たりにし、深く心に止めたのです。だからこそアガペーを多用し、ヨハネの手紙一 4章では「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」というのです。

それでは「愛する」とは具体的にどのように考えたらいいでしょうか。コリントの信徒への手紙一の13章には、愛とは何かを端的に書かれています。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。」素晴らしい言葉ですが、私たちが愛するときにどうしたらいいのかという事には、直接答えていないようにも思います。そこで私が考えるのは、「愛する」とは、相手を生かすことであり、赦すことではないかと思います。私たちの社会では、人を批判すること、攻撃することがさも立派なことであるかのようです。それが行き過ぎて、ハラスメントになったり、差別になったりしています。そこでは人は癒されることもなければ、平安もありません。生かされることもありません。まさに愛のない状態です。神様はこの愛のない状態を憂いておられると思います。

イエス様は「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」と言われます。そして「友のために命を捨てること、これ以上の愛はない」と言われるとき、そこには神様自らが独り子イエス様を十字架にかけて人々に愛を示しておられるのです。「友のために自分の命を捨てること、これほど大きな愛はない」との言葉は、「わたしのためにイエス様が自分の命を捨てられる、これほど大きな愛はない」のです。

この愛を知る時、私たちは戒めの呪縛から解き放たれます。いつのまにかクリスチャンが自分たちに課してきた「愛さなければならない」という律法から、人を自己犠牲と他者への奉仕という呪縛から解き放つのです。愛は人を自由にします。個人を尊重します。そして自由な者として、それも神様から愛された自由な者として、神様の愛を証することができ、奉仕することができるのです。パウロはガラテヤの信徒への手紙5章13節でこう言います。「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕え合いなさい。」このような神の愛によって自由にされた私たちから生まれ出る行いや生活こそが、神様が求められる実りであるのです。