主イエスにつながる枝
ヨハネの手紙一 4: 7 – 21
ヨハネによる福音書 15: 1 – 8
再び緊急事態宣言が出され、飲食店のみならず大規模商店にも休業要請が出されています。東京に住んでいる人は、他県への越境しないように、近隣県の人も東京に来ないように求められています。窮屈な日々です。距離を取れ、集まるな、触れ合うなと言われ続けています。今までは人との結びつきが大切と言われて来たのが、距離をとるように言われています。学生さんたちはもっと深刻です。対面の授業が少ない人たちは、学校にも行けないどころか、友達作りもままならないのです。新型コロナウィルスはまさに私たちの価値観や社会のあり様を変えてしまっています。しかし、私たちはどこまでも結びつきや絆を大切に考えたいと思います。人は孤独では生きていけません。
さて、パレスチナの人々にとってぶどうは昔から身近な農作物でした。旧約聖書ではイスラエルの民はぶどう畑に例えられ、その手入れをする農夫を神様として描いています。イザヤ書5章の「ぶどう畑の歌」はこう歌っています(1~2節)。「わたしは歌おう、わたしの愛する者のために。そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘にぶどう畑をもっていた。良く耕して意思を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り、良いぶどうが実るのを待った。しかし実ったのは酸っぱいぶどうであった。」これは神様を信じず従わなかったイスラエルの民が裁かれ、やがて他の国に滅ぼされることを預言した歌ですが、いかに当時の農夫が手をかけて苦労してぶどうを育てていたかが分かります。ぶどうの枝はまっすぐ伸びる枝というよりもツルのように曲がりくねっていますから、良い実を実らすことができなければ、その枝は何の役にも立たず切り取られ捨てられ焼きはらわれてしまうのです。エゼキエル書15章では、バビロン捕囚をさして、ぶどうの枝が薪として火に投げ込まれると預言しています(1節~6節)。
イエス様もぶどう園の譬などたくさん話されていますし、今日の福音書では、そのものずばり「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」あるいは「わたしはまことのぶどうの木、あなたがたはその枝である」と言われました。父なる神様、イエス様、そして私たちとの関係について語っておられます。
イエス様は、私たちがイエス様にしっかりとつながっているならば、良い実を結ぶ、つながっていないならば実を結ぶことはできないと言われます。そこには父なる神様の深い愛情と見守りが前提になっていることは言うまでもありません。枝は幹から水や栄養をもらって初めて成長し実を結びます。しかし枝である私たちはあたかも自分たちだけの力で実を結ぶことができるかのように、農夫である神さまのことを忘れ、木であるイエス様に繋がっていることを嫌い、イエス様から離れようとするのです。私たちにはいつも罪の働きがあり、神様とのつながりを邪魔します。
神様と人との関係の中では、神様の「人離れ」はありません。あるのは人の「神様離れ」だけです。しかしこの「神様離れ」は人にとってマイナス以外のなにものでもありません。なぜならば、人は神様との関係の中にあって初めて人として生かされ、平安を得ることができるからです。人は神様の愛の対象として想像されました。そして神様も、人が神様を愛することを求められました。この愛し愛される関係にある時、人の幸せがあるのです。つまり神様から離れての真実の平安はないのです。
ルカ福音書15章の「放蕩息子のたとえ」をご存じだと思います。ある父親に二人の息子がいました。弟は自分がもらうべき財産をもらって旅に出ます。しかし彼は何日もたたないうちに放蕩の限りを尽くし、財産を使い果たします。彼は食べる物にも困り、飢え死にしそうになります。そこで父親のことを思い出し、反省し、父親のもとに帰るのです。父親は彼の帰りを待ち続け、まだ遠く離れていたのに彼を見つけ、駆け寄って抱きしめ、ごちそうを用意して歓迎するのです。この光景を見ていた兄は面白くありません。自分は何年も父親に仕えてきたのに、子山羊一匹さえもくれなかったと不平を言います。これに対して父は「子よ、お前はいつも私と一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」と言ったのです。これもまた神様と私たちの関係を語っています。そして、イエスさまは、父親と離れていた弟のことを「死んでいた」と言われるのです。確かに人は、何物にも束縛されず自由に生きたいという願望があります。幸か不幸か現実にはその願望はかなえられず、私たちは様々な束縛やしがらみの中でストレスを感じながら生きています。しかし本当にすべての結びつきや関係から離れて人は生きていけるのでしょうか。むしろ家族や友人という関係や結びつきを求めて生きているのではないでしょうか。私たちはそれがなくて、希薄になって不安になっているのではないでしょうか。私たち人は関係の中で生きるものです。そして特に人は神様との関係、神様と結ばれて生きるのです。
「つながっている」ことについてもう一つ大切なことを付け加えるならば、ブドウの枝は横に広がっていきます。私たちつながりも縦の神様との関係だけでなく、横にも広がっていきます。使徒言行録の日課を見ると、エチオピアの宦官がフィリピの導きにより洗礼を受けたことが書かれています。ここにも枝のつながりがあり、聖霊がそれを導いています。キリストというぶどうの木、その枝である私たちは、見えないところで聖霊によって互いにつながっているのです。そしてさらにそれぞれに実を結ぶように養われているのです。
イエス様も「実を結ぶ」ことの大切さを語られます。実を結ぶとはいったい何を指しておられるのでしょうか。来週の日課になりますが、16節の後半にはこうあります。「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと」そして17節で「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」ここからわかることは、実を結ぶとは「愛し合う」、人と愛の関係を築くということです。そして愛の関係を築くには、イエス様と離れていてはそれができないということです。神様は愛そのものです。イエス様はご自身の生と死をもってそれを私たちに与えてくださいました。このイエス様と結ばれることによって私たちは愛を知り、愛を実行することができるのです。愛するためには愛を知らなければなりません。自分が愛されていることを知らないで、人を愛することはできないのです。そのためにも、私たちはイエス様と深く結ばれ、愛されていることを知り、実感することが大切なのです。そしてそれを知った時に、使徒書の日課ヨハネの手紙一 3: 18が言う「子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう」という呼びかけにこたえることができるのです。