2021年3月28日 礼拝説教 松岡俊一郎牧師

イエス様の十字架の前で

マルコによる福音書 15: 1 – 39

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今日の主日、私たちは「主の受難」の主日として礼拝を守っていますが、例年この日は「枝の主日」として、イエス様が十字架にかかるためにロバに乗りエルサレムに入られ、人々が棕櫚の枝をかざして歓迎した日とされています。来週は復活祭ですので、それを考えると、これまで日曜日の礼拝の中で、イエス様がどのようにして十字架にかかられたかを語ることが少なかったように思います。イエス様が十字架にかかられるその様子は、四つの福音書がそれぞれ詳細に語っていますので、そこを見ると詳しくわかります。ストーリーをたどるだけでなく、それぞれに感情移入をして、様々な登場人物の中に自分がいることを想定すると、よりリアルな気持ちで十字架の出来事を知ることが出来ます。

祭司長や律法学者、ユダヤの最高法院の議員たちは、これまでのイエス様のユダヤの伝統や律法解釈を外れた度重なる言動、そしてそれが民衆の支持を得ていたことにいら立ちが募り、イエス様を十字架にかけて処罰しようとたくらみます。そこでユダヤを統治していたローマの総督ピラトのもとに、イエス様を捕らえて引き出すのです。ピラトにとっては、イエス様の発言がユダヤの律法やしきたりに沿っているかどうかは関心がありませんでした。ピラトにとって重要なのはユダヤを統治するにあたって障害になるかどうかだけでした。ですから、当初ピラトはイエス様の中に罪状を見出すことはできませんでした。ピラトにとって気になるのは、ユダヤの指導者たちの扇動よって民衆が蜂起するような事態になってはならないという政治的な判断だけでした。

マルコによる福音書は、ユダヤ人とのやり取りの中でピラトの優柔不断な姿を表わしています。自分はイエス様の中に処罰するほどの罪はないと思いながらも、民衆の声に押されてしまっているのです。一方、ユダヤの指導者たちも、自分たちの伝統や立場を守ることに必死になり、イエス様の言葉の中に神の声を聞こうとしませんでした。民衆もまた、信念のないその場に流される民衆心理を表わしています。エルサレム入場の時、「ホサナ」と声を上げ、あれほどイエス様を歓迎した声が、今度は「十字架につけよ」との罵声に変わるのです。まさにイエス様の周りは、イエス様の十字架の道を理解しない人々だらけだったのです。それは弟子たちも同様でした。イエス様の語られる受難予告を不安を感じながら聞き、イエス様が表わそうとされる神様の救いを理解できず、ひょっとしたら、自分たちもとんでもないことに巻き込まれるかもしれないと恐れていたのです。イエス様の十字架の救いは、誰にも理解されることのない、神様の強い意志なのです。

イエス様が十字架にかかられたとき、ローマの兵隊が様々な侮辱を加えています。それに対してイエス様は「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているか知らないのです」と祈っておられます。自分を苦しめる者を前にしても、イエス様はその罪のゆるしを祈っておられます。それは侮辱を加えるローマの兵隊や祭司長、律法学者だけのことを言われたのではないと思います。イエス様の十字架こそが自分たちを救う唯一の道であることを誰も知らなかったからです。パウロが「十字架の言葉は人の目にはおろかに見える」と言っている通りです。それは私たちも同様です。さすがに自分たちがイエス様を十字架につけたという意識はそう強くないのではないでしょうか。あからさまに裏切ったり、罵倒したりすることはないからです。しかしそのような私たちも、イエス様を忘れたり、救いについて無関心になることはあるのではないでしょうか。私たちが求める幸せな状態は、衣食住が満たされ、健康で家族関係を初めとして人間関係に恵まれることです。それらを一生懸命に求めるあまりに、私たちは神様が私たちに何を求めておられるかを忘れているのです。イエス様は神様の意志に忠実でした。イエス様も人である以上、この苦しみから逃れたいと思われたのも事実です。ゲッセマネの祈りでは「父よ、出来ることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈っておられます。しかし、そのあとすぐに「わたしの願い通りではなく、御心のままに」と祈っておられます。今日の日課の中には、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味ですが、叫びながら、息を引き取られた姿も描かれています。このように、イエス様も苦しみながらも、十字架が神様の救いのために必要なことであることを受け止められたのです。

私たちはこれをどのように受け止めるでしょうか。それでも自分には関係がないこととして過ごすでしょうか。自分の弱さ、思い上がりや傲慢さ、目立ちたい、人を押しのけても認められたいと躍起になる姿、自己中心的な罪深さ、人を差別し傷つけても気づかない鈍感さ、それらは私たちと神様の関係を壊すものです。イエス様はそのような私たちの罪の贖いとして十字架にかかり、神様に至る道となってくださいました。私たちはそのような思いで十字架の前に立ちたいと思うのです。私たちの弱さや罪は、自分たちの力ではどうしようもないところがあります。しかし神様はイエス様の十字架によって私たちの罪をゆるし、関係回復の道を備えてくださったのです。まさにイエス様の十字架は私のための十字架なのです。

イエス様の十字架によって私たちの罪はゆるされました。私たちのこれからの歩みは、罪ゆるされた者としての歩みです。罪ゆるされた者として、イエス様の愛にこたえる生き方が求められているのです。そこには自責の念から解放された喜びと希望があります。