神の愛の深さ
民数記 21: 4 – 9
エフェソの信徒への手紙 2: 1 – 10
ヨハネによる福音書 3: 14 – 21
今日の旧約聖書の日課では、荒野を旅していたイスラエルの民が、その辛さから神様とモーセに「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます。」と不満を爆発させた時のことが書かれています。民が不平を言ったのはこれが初めてではありませんでした。少し前の20章では「同胞が主の御前で死んだとき、我々も一緒に死に絶えていたらよかったのだ。なぜ、こんな荒れ野に主の会衆を引き入れたのです。我々と家畜をここで死なせるためですか。なぜ、我々をエジプトから導き上らせて、こんなひどい所に引き入れたのです。ここには種を蒔く土地も、いちじくも、ぶどうも、ざくろも、飲み水さえもないではありませんか。」と言っています。この時は、神様はモーセに命じて岩から泉を湧き出させ与えられましたが、今回はもっと厳しい対応をされています。神様は炎の蛇を民に送られ、その蛇は民に噛みつき多くの人が死んだのです。神様に対する不平不満、背信に対して裁きで応えられるのです。旧約聖書にはこの勧善懲罰的な教えが底流にあります。そしてそれは旧約聖書だけでなく、私たちもそのような倫理観を持っています。正しいこと、良いことをする人は褒められ、そうでないことをすると罰せられるという風にです。これは私たちが子どものころから、良いことをすると、よくできるとご褒美が与えられる、悪いことをすると叱られ罰が与えられるというようにしつけられて来たからでもあります。ですから、私たちが聖書を読むとき、神様の心を知ろうとするとき、信仰や救いを考える時にもそのように読んでしまうのです。しかしそれは本当に正しいのでしょうか。
今日の福音書の言葉は、そのような私たちの考えを一蹴します。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」大変有名な言葉で、ここだけで福音書の中心的なメッセージを語っていると言われます。聖書によれば、人間は神の愛の意志によって創造されました。そのために神様と深く結ばれていることが人にとって本来の姿であり、人にとって幸せな状態です。しかし、人はその状態を忘れ、神様から離れて、更に神様を神様と思わず、自分自身を中心とし、人は何でもできると錯覚してしまったのです。神様と結ばれてこそ幸せな状態なのですから、そうでない状態は不幸せな状態と言わざるを得ません。神様を忘れたところでは、すべての結果が自分に降りかかってきますから、人の存在の根底にはいつも恐れと不安が付きまとうのです。そして神様との関係によって存在が成り立つ人間がその関係を失ったところでは、頼るものがなく孤独を感じざるを得ないのです。そこでは、私たちが頼りにしている人間関係は不確かで、完全に頼りにはならないのです。ここに救いを求めざるを得ない人間の宿命があるのです。しかし神様はそのような私たちを見捨てることはされません。とことん、ひとり子である主イエス様を十字架にかけてまで私たちの罪をゆるし、救いへと導いてくださるのです。それもすべての人を招いてくださっているのです。
イエス様はさらに気になることを言われます。「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」この言葉を聞くと、「やはり信じる者は裁かれないが、信じない者は裁かれるじゃないか」と思ってしまいます。しかしそれは救いと裁きが、人間の行為によるのではなく、救いの状態がどんなものか、という風に考えることが大事です。何々したから裁かれないのではなく、何々をしなかったから裁かれるというのでもありません。人にとってどんな時が救いの状態で、どんな時が裁きの状態にあるかという事です。人にとって本当に幸せな状態は、物質的に満たされること、人間関係に恵まれること、災害や戦争のない状態だけではありません。むしろ人間が本来あるべき神様との関係に立ち返ることが一番幸せな状態です。ですから、そうでない状態、人の心が神様から離れた状態が、イエス様が言われる「滅びの状態」なのです。
しかし、イエス様は、ひとりも滅びないためにこの世においでになり、十字架の道を歩まれました。信じる者だけではなく、まさにすべての人を救うために死なれたのです。イエス様は世の光としておいでになりました。しかし「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。」このように罪にまみれた私たちは、闇の中にいます。まさに滅びの状態です。しかし光は闇を貫き、闇に勝つのです。イエス様は私たちの光として立っておられます。私たちはその光に信頼し、従うことだけが必要なのです。