2021年3月7日 説教 松岡俊一郎牧師

イエス様の緊張

ヨハネによる福音書 2: 13 – 22

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聖書の時代のユダヤは、神殿中心の社会でした。出エジプトの出来事の際に神様がユダヤ民族を裁きから過ぎ越してくださった民族的な祭の「過越しの祭」、秋の収穫祭であり荒野の生活を思い出す「仮庵の祭」、七週の祭とも呼ばれた春の収穫祭の「五旬祭」、この三大祭をはじめとして様々な祭が神殿を中心に行われ、それが民の一年の生活のリズムを形作っていました。イエス様の時代の神殿は、ヘロデ大王の時代に建設がはじめられたもので、まだ建築中でした。しかしその豪華さはマルコ福音書で弟子の一人が「先生、ご覧ください。何と素晴らしい石、何と素晴らしい建物でしょう」と驚嘆しています。神殿は、ダビデからソロモン王の時代に、モーセの十戒の契約の板をおさめた箱がこの場所に安置されたとする至聖所と呼ばれる場所を神聖な場所としていました。その外側に、ユダヤ人の男だけが入ることができる場所、女性が入ることができる場所、そして異邦人も入ることのできる広めの「異邦人の庭」と呼ばれる場所がありました。この異邦人の庭では、遠く離れたところから巡礼にくる人々のために神殿に捧げる犠牲の動物を売っていました。また当時の通貨はローマの貨幣でしたが、そこにはローマ皇帝を神とあがめるように像が刻まれていました。さすがにそれをユダヤの神殿にささげるわけにはいきません。そこで、ユダヤ人たちは古いユダヤの貨幣に両替をして捧げていたのです。つまり動物を売る人々も、両替屋も神殿礼拝には必要なものだったのです。そのような理由で異邦人の庭は、大変なにぎわいになっていたと思われます。そこには、神聖な場所を商売で汚していたと簡単に言い切れない、宗教的に真面目で合理的な理由もあったのです。

旧約聖書の預言書を読んでいますと、預言者が幻を見たり、奇妙な行動をとったりします。常識的な言葉や行動が大切と枠づけされ、宗教的感性が鈍くなっている私たちは、そのような行動を素直に受け入れることができません。見慣れないことは奇異な行動として映り、場合によっては精神的に病んでいると見てしまうかもしれません。しかし、宗教的な感覚やその体験というのは、むしろそういう奇異な言動と紙一重のところがあるのかもしれません。公の伝道の生活を始められたイエス様も、そのような研ぎ澄まされた感覚をもっておられたのかもしれません。ヨハネ福音書は、この出来事をイエス様の公生涯の比較的早い時期の出来事として描いていますが、他のマタイ、マルコ、ルカの共観福音書は、イエス様の三度目のエルサレム訪問、いよいよイエス様が十字架にかかるためにエルサレムに入られた時の出来事として書いています。そうすると、イエス様ご自身もご自分の十字架が目の前に迫っているわけですから、非常な緊張があったのではないかと想像します。

神殿の賑わいをご覧になったイエス様は、腰に巻いていた縄で鞭を作り、羊や牛、鳩を境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒されたのです。さらに、貧しい巡礼者のために鳩を売っていた者たちに「このような物はここから運び出せ、わたしの父の家を商売の家としてはならない」と言われたのです。
このイエス様の言動は周囲の人から見たならば、とてつもなく乱暴な行為でしたし、人々は「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せるつもりか」と迫っています。それは自分たちの宗教的行為を侮辱し、台無しにする行為ですから、それを超える何かを見なければ許せるものではないし、納得もできないことだったからです。ここで私は主の復活を疑ったトマスのことを思い出します。彼は他の弟子達が復活の主に遭った時、そこにはいませんでした。彼はこの指を釘跡に入れてみなければ、また、この手を槍にさされたわき腹に入れてみなければ決して信じないとしるしを求めました。その一週間後、主はトマスの前に現われ、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と言われました。彼はその傷跡を確かめて信じたのではありません。むしろ、イエス様の「信じないものではなく、信じる者になりなさい」という招きの言葉によって信じたのです。ユダヤ人たちにとって信仰は、力であり、形であり、行為でした。

イエス様が考えておられたことと、人々の宗教的な考えとには大きな隔たりがありました。最初に申し上げましたように、人々にとって神殿は信仰と生活の中心です。神殿はいたるところ金箔で覆われ、他のどの建てよりも豪華で大きかったはずです。そのような場所で、律法の教えの通りに礼拝することが彼らの救いのために大切なことでした。しかしイエス様はご自身の中に救いの完成を見ておられました。ゼカリヤ書の最後、14章21節には「その日には、万軍の主の神殿にはもはや商人はいなくなる」と書かれています。動物を追い払い、両替屋の台を倒し、鳩を売っていた者を追い払うというイエス様の乱暴な行為には、この救いの到来の象徴的な意味があったのです。さらに神様のみ座である場所、神様のおられる場所も神殿の中にではなく、三日目に復活されるキリストご自身の中におられることを見ておられたのです。このイエス・キリストが地上においでになったことが、すでに救いの到来であり、このイエス・キリストを信じることが救いに与ることなのです。

人々は救いを得ることを求めていました。そのためにはるばる神殿を目指して旅をし、いけにえを捧げ、献金を献げ、礼拝をしていました。そこには救いを得るための自分の努力が必要であり行為が必要でした。しかし、イエス様によって救いは大きく変わりました。物をささげ拝んで得るというものから、信じるということに変わったのです。私たちも礼拝に集い、賛美と祈りを捧げ、献金も捧げます。しかしそれは救いのために必要な私たちの努力ではありません。すでに救いはイエス・キリストが来られたことによって与えられており、神の国もキリストによって到来しているのです。私たちはそれを知り、受け入れるために、与るために、自分のうちに実現するために礼拝に集いみことばと聖餐をいただいているのです。そして礼拝における交わりと祈りと賛美の中でそれは豊かにされ、その感謝として献金をささげているのです。
教会讃美歌の38番にノルウェーのメロディーによるとてもかわいいクリスマスの讃美歌があります。特にその四節は信仰的で素直な気持ちを表現しています。読んでみたいと思います。「わたしのこころ すまいにして、どうか主イエスよ きてください。わたしは 今は、あなたのもの、こころの家に 来てください」

私たちがどこかに出かけていくのではなく、求めて手に入れるのではなく、わたしの心を開いて来ていただくのです。そして私たちのこころはキリストの救いで満たされるのです。神様のおられる場所は、イエス・キリストを信じる私たちの心です。