2021年2月28日 説教 鈴木連三氏 (信徒)

十字架を背負って従う

マルコによる福音書 8: 31 – 38

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イエス様の予告とペトロの否定
今日の福音書の直前にペトロ信仰告白の箇所があります。『あなたがたは私を何者だと言うのか?』 ペトロは答えます。『あなたは、メシアです。』それに続けてイエス様は続けてとんでもないことを予告しました。『私はこれからそう遠くないうちに、多くの人から苦しみを受け、十字架につけられて殺されます。でも、殺されたあと3日目に復活します。』弟子たちは大きく動揺します。『うちの先生の”メシア業”もうまくいき始めているのに、捕まって殺されるなんて。まだユダヤのローマからの解放は進んでいないじゃないか。』ペトロが一番に反応しました。『先生、そんなばかなことがあってはいけません。』

繰り返される弟子たちの無理解
そんなペトロをイエス様はしかります。神様が私たち人間のためにお決めになった大切なご計画を、人間であるペトロが自分の考えていた願望とは違っているから神様はおかしいと否定したからです。ペトロはイエス様が『救い主』だという答えはわかっていたけれど、その意味の理解ができていませんでした。弟子たちは8章や9章の別の記事、ガリラヤ湖上の船でも変容の山の上でも、イエス様に遣わされたのに悪霊に取りつかれた人から霊を追い出せなかった村でも、イエス様は何者なのか理解できていないことを露呈し続けました。そしてこれらの無理解はイエス様の十字架での死まで続きました。

弟子たちへの新しい掟と自分の十字架
そのような弟子たちに『わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。』という新しい掟をイエス様は与えます。弟子たちにとっては”メシア業”に失敗した先生の道ずれになって『あなたたちも死ね』と言っているようなものですから衝撃的かつ到底受け入れられないものだったと思います。
ところで私たちが十字架を背負うとしたらそれはどういうものになるでしょうか?絶望的な不治の病や呪いたくなるような宿命など、生きる限り避けて通る事ができないネガティブなものでしょうか?『十字架刑から逃れられなかったイエス様は、あなたと同じように苦しんだのだから。』という理解の下、この言葉を慰めとして生きることもできるかもしれません。でもそれではイエス様が十字架に架かった意味が薄れてしまいます。

キリストの十字架・キリストの栄光
今日の箇所に続く山上の変容は、3人の弟子たちにこれから起きること予告として見せた出来事です。光り輝く栄光のイエス様を前にした弟子たちに神様の声が聞こえます。『これは私の愛する子。これに聞け。』
山上の出来事が予告だとするならば、この光り輝く姿と人々に蔑まれ十字架に架かった姿は同じ栄光の姿です。神様は全ての人を救うために、全ての人を愛するためにひとり子を十字架につけました。私たちが背負うよう言われているのはこの十字架です。『自分の命を救いたい、いちばん大事なのはやっぱり自分』という心を捨てましょう。そしてイエス様のように隣人に仕えて生きましょう。それがキリストの十字架を背負うということです。この十字架は神様の人間に対する愛のしるしなのです。
イエス様を『うちの先生』と思い、この世的な成功を望み、受難予告を強く否定した弟子たちにとって、十字架は愚かなものに思えました。しかし、キリストの復活によって全てを理解し、『あなたはメシア、私の神様です。』と心から言えるようになってからは、十字架を背負う姿こそ栄光の姿なのだと確信しました。『自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。』キリストのように愛に生きる、そうすることで、イースターにキリストの復活によってもたらされる永遠の命をわたしたちもいただけるのです。