2020年1月24日 説教 松岡俊一郎牧師

あなたも招かれている

マルコによる福音書 1: 14 – 20

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東京で新型コロナウィルス感染症と確認された方の数が、連日1200人を超えています。大みそかに2500人を超えた時にはさすがに驚きましたが、最近では慣れっこになり、1000人を超えても驚かなくなり、少しでも減れば安心してしまいます。しかし、その数字の奥にはひとりひとりがおられます。その方々について想像力を働かせると、大変なことです。あらゆる病気の症状に苦しめられ、隔離生活を余儀なくされ、最近は入院やホテル療養もできず、自宅療養という悪く言えば放置されたような状態の人もいます。一人暮らしの人はとても不安だろうと思います。そのようにコロナに感染された方々は、肉体的にも精神的にも追い詰められています。そして実際に命をなくす方も少なくありません。家族は見舞いにも行けず、亡くなっても通常のお葬儀もできないのです。その意味では数字に惑わされてはいけない、数字の奥には一人一人の命と人生があることを忘れてはいけないと思います。

さて、今日の福音書の冒頭では、「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の国の福音を延べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた。」とあります。ヨハネからイエス様の宣教への転換点です。バプテスマのヨハネは荒れ野で人々に悔い改めを求めていましたが、イエス様は人々の暮らすガリラヤの町の中に入って伝道されるのです。人々の生活から離れたところではなく、一人一人が暮らす日常の営みです。ガリラヤ湖は普段は静かなところです。風の音、鳥の声、さざ波の音、漁師が網をうつ姿、網を繕う姿は、のどかで代わり映えのしない日常です。ここでマルコは突然にイエス様の言葉を語ります。イエス様は網を打っていたシモンとアンデレに声をかけられます。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」
あまりにも唐突です。そこには世間話もあったかもしれません。「今日は魚は取れますか」「いや、あまりとれませんね」そんな会話があったかもしれません。しかしマルコはそれらを一切省いて「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と二言だけ載せるのです。イエス様が彼らと顔見知りであったのか、彼らがイエス様の話を聞いたことがあったのか、想像が膨らみますが、ここで大事なことは「わたしについて来なさい」という一言だけです。どこに行くか、何をしに行くかわからず、ついていったらどうなるのかというような迷いが入り込む余地はなく、ただついていくのです。そこにはついていく側の心配や思惑が入る余地はありません。これは私たちの選択や決断の仕方とは大違いです。私たちはあれこれ心配します。いろいろな可能性と比べ思い悩みます。そして諦める、断念することも多いのです。しかしイエス様の呼びかけは、それらの迷いや思惑を超えた神様の招きです。ましてや「人間をとる漁師にしよう」という不思議な言葉も語られます。漁師として魚を取っていた二人であっても、人間を取るということがどんなことであるのか、すぐに分かったとは思えません。きっと後に弟子として過ごしていく中で少しづつ、その意味が何となく分かったのではないでしょうか。牧師を目指す神学生が献身を決意するとき、牧師の仕事をすべて理解しているわけではありません。むしろ牧師となって初めて、少しづつ経験を積み、おぼろげながらつかんでいくのに似ているかもしれません。はじめは何もわからなくても、とにかく「二人はすぐに網を捨てて従い」、他の二人も「父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して」イエス様の後について行ったのです。

四人の若者がガリラヤ湖のほとりで過ごしていた日々と今の私たちが過ごしている生活では、大きな隔たりがあるでしょう。周りの景色や生活習慣は言うに及ばず、時間の速度、情報の多さ、競争、そしてストレス。ましてや今はコロナ禍の真っただ中です。世界中の人々が不安と不自由さの中で苦しんでいます。まさしく今とは全く別世界だと思います。しかしそこに共通するのは、彼らの日常に、そして私たちの日常に突然イエス様のほうからおいでになるということです。今の私たちに日常は、コロナ前の日常ではありません。コロナに翻弄され続けていている今の日常です。そこにイエス様は、何の予告もなく、何の準備もないところに、おいでになるのです。

従った四人の若者たちには、何の準備もありませんでした。マタイ8章やルカ9章によると、イエス様の招きを躊躇した人たちもいたのです。しかしこの四人の若者は、何のためらいもなく従っているのです。そこにはイエス様のまなざしがありました。このまなざしは多くの人々の中から選び出す選別ではありません。一人一人に一直線に向かう招きでした。彼らは後に「無学な人」「ガリラヤ人」ではないかと蔑視されています。特別な人だから選ばれたのではなく、イエス様の自由の選びの中で招かれているのです。イエス様のまなざしは、一人一人に注がれます。私たちが出かけるのではありません。私たち一人一人の日常にイエス様が飛び込んでくださり、あなたを選んでくださるのです。

それでは、私たちは何に選ばれているのでしょうか。イエス様が弟子を選ばれたからと言って、みんなが伝道者、教会の教師として選ばれていているわけではありません。それぞれに遣わされている生活の場所があります。仕事をしている人はその働きを通して、家庭の主婦として、母として、父として、子として、ある人の友として、そして見知らぬ人の隣人として選ばれているのです。この選びを自覚するとき、私たちには神様に用いられる喜びがあり、希望があります。イエス様が示された仕える使命が与えられるのです。使命があるという事は、その人自身が必要とされていることです。必要とされていることは生きる喜びがあるのです。私たちにはこの喜びが与えられています。