2020年12月13日 説教 松岡俊一郎牧師

言(キリスト)は肉となった

イザヤ書 61: 1 – 4、8 – 11
ヨハネによる福音書 1: 6 – 8、19 – 28

説教の動画をYouTubeで視聴できます。

旧約聖書の日課のイザヤ書61章は、正確には56章以下は、第一イザヤ、第二イザヤとも別人の「第三イザヤ」と呼ばれる預言者、あるいは第二イザヤの弟子グループによって書かれたものと言われています。そこでは「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして貧しい人によい知らせを伝えるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために」と言います。わたしである第三イザヤが、よい知らせと自由と解放を告げ知らせるために、神によって証し人とされたというのです。神の救いを告げ知らせる証し人、これが今日のテーマです。

ユダヤ人たちは救い主の到来を待っていました。イスラエルの歴史は旧約の昔から存亡を繰り返しています。周囲をエジプトやアッシリア、バビロン、ギリシャ、ローマなど列強の国々に囲まれ、絶えず侵略の憂き目にあっていました。そのために人々は解放の時、救いの時が来ることを待ち望んでいました。後期ユダヤ教と呼ばれる新約の少し前の時代には、世の終わりの時にその時がやってくるという終末を待望する機運も起こっていました。新約の時代にはローマ帝国の支配と傀儡政権としてのヘロデ王朝の支配のもとで、民衆の間には苦しいこの社会を変革し解放してくれる救い主を待ち望む機運がより強く高まっていました。そんな時に洗礼者ヨハネが現れたのです。彼は羊の毛衣を着、革の帯を締め、イナゴと野蜜とを食べて、ヨルダン川で洗礼を施していました。その口からは大変厳しい言葉が語られましたので、人々が彼こそが救い主と期待したのは無理からぬことでした。そこで祭司やレビ人をヨハネのもとに遣わし「あなたは、どなたですか」と尋ねたのです。この問いに対してヨハネが「わたしはメシアではない」と答えると、それでは「エリヤですか」と尋ねます。エリヤは生きたまま天に挙げられたと伝えられる預言者です。さらに「違う」と答えると「それではあの預言者ですか」と尋ねます。「あの預言者」とは申命記18章15節でモーセが「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わなければならない。」と言っている、その預言者のことを指しています。しかしヨハネはこれに対しても「そうではない」と答えています。「それではいったい誰なのですか」と詰め寄ります。先に祭司やレビ人があげたメシア、エリヤ、あの預言者とは、いずれも終末の時に現れるメシア的な救いをもたらす人たちでした。つまり、人々はヨハネをそのような存在として期待していたのです。

しかしヨハネの答えは「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」いうものでした。それは今日の日課の冒頭で言われているように、証し人としてのヨハネの姿がはっきりと見て取れるものです。ヨハネ福音書の1章6~8節以下にはこの洗礼者ヨハネのことを、特別な仕方で表現しています。ヨハネは救いをもたらすのは自分ではなく、自分はその道備えをする者であることを自覚していました。
そこで人々の関心は洗礼に移ります。「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ洗礼を授けるのですか。」洗礼を授けることは、誰でもがそれができるわけではありませんでした。洗礼もまたメシア的な救い主こそが行うことができる行為と考えられていたのです。だからこそ、ヨハネが「メシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもない」のなら、ヨハネは何の権威によって洗礼を授けるのか問いただしたかったのです。
ところがヨハネはそれに直接答えることはせず、「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人は私の後から来られるからで、わたしはその履物のひもを解く資格もない」と言ったのです。マルコによる福音書は「その方は聖霊で洗礼をお授けになる」と言っていますし、ルカ福音書は「聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と言っています。このようにヨハネは洗礼の権威の所在ではなく、洗礼そのものについて答えるのです。

ヨハネはヨルダン川で洗礼を授けていました。当時の町は獣や盗賊、敵の侵入を防ぐために城壁で囲まれていました。しかし、ヨハネはその城壁の外、荒れ野で暮らし、洗礼を授けていたのです。ここにはヨハネの生き方があります。また彼が授けていた洗礼にも通じるものがあるように思います。彼の洗礼は「悔い改めの洗礼」と呼ばれます。罪の赦しのために人々に悔い改めを求めていたからです。私たちは様々なものを用いて自分の身を守ろうとします。洋服のように身の回りだけでなく、心にもさまざまな知識や考えをあたかも鎧のように身につけて、あらゆる外からの刺激や攻撃から身を守ります。洗礼者ヨハネが荒れ野で生活し、人々を荒れ野に導きだして洗礼を授けていたのは、その防御の鎧を取り去るためであったように思います。私たちが神様の前に立つとき、それも悔い改めを求められて立つとき、私たちは様々な言い訳や理屈をもって立ってしまいます。神様の前であっても、どこか責められることがないように構えてしますのです。しかし、ヨハネはそのような私たちに、神様の前に立ち悔い改めるときには、すべてを投げ出し、あらわにし、ありのままの自分を神様に差し出すように求めているのです。洗礼は水の洗いです。身を清め、古い自分に死に、新しい自分として生まれ変わろうとするものです。そのような時に、いろいろ身につけていては、それは洗いや清めにはならないのです。そもそもどんなに自分を繕っても、自分の欠点を隠しても、神様はすべてお見通しです。それなのに私たちは愚かにも、ありのままの自分を差し出すことができないのです。

ヨハネは自分の役割を徹底的に「矢印」に徹します。自分に向かう関心を後から来られるお方、キリストに向けようとします。救いを実現されるのはキリスト以外にないことを知っていたからです。知っていたと言っても、彼自身も人間的な意味で知っていたのではありません。ヨハネは「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる」と言いますし、31節や33節では「わたしはこの方を知らなかった」と二度もいっているからです。彼の頭の中には神様から与えられた使命しかありませんでした。人々の関心を自分に向けようとするこの世の政治家の姿とは対照的です。ただヨハネは、キリストこそが救いをもたらすお方であることを聖霊の働きによってそれを知り、その確信によって宣べ伝えていたのです。

ヨハネの証しは、今日の私たちには御子のお誕生という仕方で知らされます。わたしたちもこの証に捉えられ、導かれたいと思います。そしてクリスマスを迎えようとしている私たちが、多くの方々に救い主イエス・キリストの誕生を知らせる証し人となりたいと思うのです。しかし、今年の教会の活動はコロナ禍のために制限され、クリスマス礼拝も多くの方々に出席していただくことが難しい状況です。そのような中にあっても、私たちは伝道という証を断念することはできません。困難な状況を見極めながら、新しい伝道の在り方を模索していきたいと思います。