2020年11月29日 説教 松岡俊一郎牧師

キリストを待ち望む

マルコによる福音書 13: 24 – 37

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私たちは日ごろからイエス様の十字架による赦しと救いを聞いていますので、私たちの神様のイメージは慈愛の神様です。しかしいつの時代も神様のことをそのように感じていたかというとそうではありませんでした。旧約聖書の日課で第三イザヤが預言を語っている時代は、バビロン捕囚から解放されようとする時期です。以前にもお話しましたが、捕囚と言っても牢屋につながれていたわけではなく、ある特定の地域で暮らすことが許され、それほど不自由なく暮らしていたのです。ですから、捕囚の生活に慣れて、バビロン捕囚からの解放の預言が語られてもそれを歓迎しない人たちもいたのです。第三イザヤはバビロン捕囚が厳しい神様の裁きであることを語ります。国を追われ、祖国が廃墟となってしまったのは、偶像礼拝と背信に対する神の怒りであると語るのです。当然そこには世の終わりが語られます。

聖書の時代には終末思想がありました。旧約聖書のダニエル書や新約ではヨハネの黙示録にその色彩が色濃く出ています。今日の福音書の日課があるマルコによる福音書13章も「小黙示録」と呼ばれ、イエス様ご自身が世の終わりについて述べておられるところです。それは弟子たちがエルサレム神殿を見て「先生、ご覧ください。なんとすばらしい石、なんと素晴らしい建物でしょう」と感嘆の声を上げた時、「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」と神殿崩壊の預言をされて所に端を発します。不安に思った弟子たちが「おっしゃって下さい。そのことはいつ起こるのですか。また。そのことがすべて実現する時には、どんな徴があるのですか」と尋ねたのです。そこでイエス様ははっきりおっしゃっていいます。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう」と言われました。信仰宗教やカルト宗教の教祖の多くは、自分がキリストであるとか、イエス・キリストの生まれ変わりだと主張しています。さらにイエス様は言われます。「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは海の苦しみの始まりである。あなたがたは自分のことに気をつけていなさい」と言われたのです。イエス様が言われること一つ一つ取り上げると、なるほど今の私たちの時代もパレスチナでは戦争が起こり、アメリカはロシアやイラン、中国と緊張関係にありますし、私たちの国も周辺国との間に緊張関係にあります。地震が起き、世界では飢饉が頻発しています。そしてコロナ・パンデミック、まさに世の終わりがすぐに来てはいないけれどもその前兆とも取れる事象が多くあります。しかしイエス様は「慌ててはいけない」といわれるのです。そしてそこでは「まず福音が宣べ伝えられなければならない」といわれるのです。私たちは身の危険を心配する前に、それらのことは主にゆだね、福音宣教の使命を果たさなければならないのです。

さて、今日の福音書は終末の様子が描かれています。「それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」

福音書が書かれた頃、紀元70年にはエルサレム神殿がローマ帝国によって徹底的に破壊され、ユダヤ人たちは散らされてしまいます。またそれよりも少し前、ローマでは、皇帝ネロによってキリスト教会への激しい迫害が起こっていますので、初代教会の人々はまさに自分が生きている今この時に終末が起こると考えたのでした。従って、新約聖書はそのような緊張感を持って書かれていたのです。テサロニケ第一の4章15節には、「主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。」と言っています。つまりパウロは自分が生きている間に主の再臨があると確信しているのです。このテサロニケの信徒への手紙が書かれたのはマルコ福音書より15年ほど前、50年代前半です。まさに初代教会の人たちは、終末のリアリティのなかで過ごしていたのです。

もちろん世の終わりは起こりませんでした。それから教会は、終末を待ち続ける長い時代に入るのです。完全な終末がなかなか来ないことから、終末は来ないという人たちも現れました。しかし、教会は聖書の約束していることは必ず実現すると信じていますから、終末が必ずやってくることを信じています。しかしその待ち方は変わりました。今か今かとはらはらドキドキ、びくびくして待つのではなく、その間にしっかり果たすべき使命を果たそうと考えるようになったのです。それはイエス様が「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」と言われているからです。

この終わりの日の待ち方の変化は、「終末論」という言葉が使われるようになります。これは終末が世の終わりを意味するのに対して、その終末をどのように見るかという考え方です。それは、私たちの人生観、時代の読み方を、今を起点とするのではなく、救いの完成の時である終末の時から見るという考え方です。私たちは歴史を考える時には今を起点に過去を振り返ります。自分の人生を考えるときにも、今を起点にこれまでの歩みを振り返ります。それが普通です。しかし終末論は、今を起点にするのではなく、世の終わりから今の私たちを振り返るのです。世の終わりから今を振り返るというのは、なんだかすごく難しそうですが、視点の転換です。普通に自分の人生を振り返る時には、今は一つのゴールです。まだ明日がある、将来があるとは言っても、先は分からないのですから今がゴールです。ゴールでは結果が出ます。自分の人生の評価や反省がつきものです。しかし終末論的な見方は、今もまだゴールではなくプロセスの途上なのです。たとえ明日自分の命が終わりを迎えようとも、神様のご計画の中ではまだ途中なのです。ですから、私たち自身の今を人生のゴールと結論付ける必要はないのです。ゴールとするならば、そこではあれもできなかった、これもダメだったと悔やむことばかりが思いついてしまいますが、途中と考えるならば、ゴールは神様のもとにあるのですから、私たちの人生はすべての神様のご計画の途上なのです。そこでは私たちが人生の評価や結論を出す必要がないのです。別の言い方をすれば、今は神様の働きの真っ最中。私たちの今は、神様の働きのただ中なのです。ですから結果はすべて神様のみ手に委ねて、私たちは求められていることを一生懸命励むことです。それがイエス様のみことばの宣教です。このイエス様の言葉は天地が滅びても、決して滅びることのないものです。

イエス様は「目を覚ましていなさい」と繰り返し語られます。目を覚まして何をするのでしょうか。焦って何かをする必要はありません。不安定さ、不確かさの中に生きている私たちには、一つの確かさが既に与えられています。それがイエス・キリストの十字架による救いです。この十字架によって神さまの救いの計画は完成しています。この完成を受け入れつつ、すでに救いの喜びを味わいつつ、私たちは最後の救いに向かって歩むのです。私たちが宣べ伝えるみことばはこの十字架による救いです。私たちにはこの救いのみ言葉が与えられていますから、ここに堅く立って、さらに最後の時まで人々にみことばによる絶対的な平安を宣べ伝えていきたいと思います。