2020年11月15日 説教 松岡俊一郎牧師

宝を預けられている

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マタイによる福音書 25: 14 – 30

今日、幼稚科と小学科の礼拝は小児祝福礼拝を守り、一人一人の子どもを祝福しました。大岡山教会の宣教の一つの特徴は、子どもたちにより大きな愛情を注ぐということではないでしょうか。幼稚園を通してのキリスト教保育、そして幼稚園から上がってきた小学生、中高生を大切に育てることに心を注いでいます。年齢が上がるごとに子どもたちも忙しくなり、関心も広がっていきますので、確かに少なくはなってきますが、それでも私たちの目と心が子どもたちから離れることはありません。今日の小児祝福礼拝もその一つですし、この後行われる堅信式もその賜物だと思います。

さて、マタイによる福音書24章から25章は、終末について語られています。先週も申し上げましたが、ユダヤでは旧約聖書の時代から、人々の間には世の終わりである終末が訪れ、救世主メシアの到来を待望する機運が広まっていました。ローマ帝国とヘロデ王朝の二重の支配、その上にユダヤの律法による宗教的な抑圧があり、実際の庶民の生活は貧しい暮らしを余儀なくされていました。そのような状況の中で、終末が起こり救世主が現れ、救われると考えていたのです。一方、民衆の間にはイエス様をメシアと歓迎する人々がいました。しかしイエス様が十字架にかかり死なれると、その期待は一部の信仰者だけになります。イエス様が復活し天に昇られた時に、再び戻ってくると約束されましたので、彼らは熱心にイエス様の再臨を待ち望んでいたのです。それも今か今かと待っていたのです。ところが、マタイ福音書が書かれた紀元70年頃、いつまでたっても終末は起こらないし、イエス様の再臨も訪れない。ひょっとしたら、終末も再臨もないのではないかと思う人々が多くなってきたのです。その意味では私たちも同じです。私たちにとっても終末や再臨と言われてもピンとこない、現実的に起こるとは考えなくなっているように思います。聖書は、そのような私たちに語られているように思います。とはいっても、キリスト教の一部の教派や新興宗教が言うように、終末も再臨ももうすぐ本当に来るから、その備えをしなさいと脅しているのではありません。むしろ、終末と再臨が来る前に、私たちはどのように備えるべきか、今をどう生きるかを教えています。

ある人が旅に出る時、僕たちに財産を預けます。一人には5タラントン、もう一人には2タラントン、最後の人には1タラントンです。1タラントンというのは、当時の日雇い労働者の20年分の賃金と言われていますので、大変な金額です。前の二人は早速そのお金で商売をし、それぞれ倍のお金を儲けます。三番目の人はその1タラントンを土に埋めて隠しておきます。一説によると、土に埋めておいて、もしそれがなくなっても責任を問われないと言われていたそうです。厳重な銀行や金庫がない時代ですから土の中が一番安全と考えられていたのかもしれません。「かなり日がたって」主人が帰ってきます。実はこの「かなり日がたって」というところがミソです。これがイエス様が天に昇られた後なかなかこの世に再び帰ってこられない、その期間を意味しているからです。イエス様が帰ってこられない間、前の二人は賢く働いて財産を増やします。そして「忠実な僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」と褒められます。ここで気になるのは、主人が「少しのものに忠実であったから」と言っているところです。先ほど申し上げたように、5タラントンも2タラントンも決して「少しのもの」ではないのです。ということは、主人はどうやら金額のことを言っているのではないということがわかります。これについては後で触れます。三番目の労働者は次のように言います。「ご主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。ご覧ください。これがあなたのお金です。」この人は主人のお金を大事にしまっていたのです。そして主人に損をさせることなく返しているのです。しかし主人はこの人は「怠け者の悪い僕」と呼びます。そしてもし自分が恐ろしいと知っていたなら、銀行に預けて利息だけでも儲けるべきではなかったか」と叱るのです。この人が「怠け者」と呼ばれているところだけを見ると、やはり主人が留守の間に何かの成果を上げることを主人は期待していたのかと思ってしまいます。しかし先ほど申し上げたように、主人は金額のこと問題にしているのではありません。むしろ「小さいものに忠実である」ことを望んでいたのです。それは主人に対する信頼です。前の二人の僕は、主人の自分に対する信頼を感じとり、その信頼にこたえたのです。三番目の僕は主人を貪欲で厳しい人だと思っていました。そこには恐怖だけがあり信頼はありませんでした。聖書の時代の人々の信仰、特に律法によって支配されていた人々にとっての神様とはそのようなイメージだったのでしょう。しかしイエス様は人々に恐れられることを求めておられるのではなく、信頼を求めておられるのです。

この「小さいもの」にこだわってみましょう。来週の日課の先取りになってしまいますが、25章40節には「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言われています。私たちが目を向けるべきものは、金額や成果ではありません。終末と再臨を待つ間、何かを獲得するとか成果を上げるために必死になる必要はないのです。その意味では中世カトリック教会が強調した徳や功績を積むとか、プロテスタントのあるグループの自分自身の努力で清められるというのでもありません。むしろそのような宗教的な成果主義、さらにいえば現代社会の成果主義からも解放され自由にされているのです。自由になった私たちはどう生きるのか。パウロがガラテヤ5章13節で「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせず、愛によって互いに仕えなさい。」と言うように、自由を与えられた人間には愛の生活だけが求められているのです。「小さいもの」、「小さい者」とはイエス様ご自身です。私たちはこの小さい者とされたイエス様に信頼を寄せ、信仰に忠実に歩むべきなのです。小さな者、それは子どもたち、高齢者や障碍者、貧困にあえぐ社会的な弱者、そして一人一人の私です。この小さい者と共に歩むことは簡単なことではありません。時には自分の懐を痛めることにもなりますし、時間も取られます。それだけでなく、自分が優先したい思いや考えも脇に置かなければなりません。犠牲を伴うのです。しかしこの犠牲や痛みを伴わない奉仕はありません。なぜならイエス様は十字架の痛みと苦しみをもって私たちに奉仕してくださったからです。終末と再臨を前に、私たちはどうするでしょうか。