2020年11月8日 説教 松岡俊一郎牧師

目を覚ましていなさい

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テサロニケの信徒への手紙一 4: 13 – 18
マタイによる福音書 25: 1 – 13

アメリカ大統領選挙が混迷を深めています。アメリカの行方だけではありません。新型コロナウィルスが世界で再び猛威を振るい始めています。日本の感染者も増えています。今年私たちが経験したことは、誰にも予想がつかなかったことですし、これからどうなるかも正直答えられる人はいないのではないかと思います。私たちの生活、教会の宣教、一か月先のことがわかりません。しかしわからないからといって何もしないわけにはいきません。確かな歩みを続けなければなりません。

今日の福音書では、ユダヤの婚宴のしきたりと風景が垣間見られます。
ユダヤの結婚誓約式(キドゥシン)には、婚約期間の部と婚宴の部があるとされています。まず婚約の時には友人や隣人が証人となって、両家が顔を合わせ、二人が一つの盃を飲み婚約の儀式を行います。それから花婿は、家に帰り、時間をかけて具体的な新居の準備をします。婚約はすでに結婚と同様に扱われますので、婚約破棄は離婚と同じ手続きが必要です。クリスマス物語のヨセフとマリアが婚約中であったという表現には、すでに結婚していたと同じ意味がありました。
婚宴の部は地域社会の一員となるための重要な儀式で、近隣住民が総出で行います。タルムードでは、この時は律法の勉強も中断すると言われているほどに結婚は重大なこととして扱われていました。それは一週間にわたって行われます。一説によると火曜日の夜(ユダヤ式の暦では水曜日)に行われるという話です。当日、新郎は断食をし花嫁を迎える準備を入念にします。花嫁は沐浴をし、断食をして花婿の迎えを待つのです。花婿がやってくると、花嫁の友人の乙女や姉妹が花婿を迎えに出るのです。これが福音書の場面です。そして花婿の家で、フッパーと呼ばれる四本の柱で作った四角い天幕の下でユダヤ教の教師ラビのもとで結婚の誓約をするのです。そこまでは荘厳に行われますが、その時、飲み干したワイングラスを地面に投げ、それを新郎が踏み割った途端、歌や踊りの大宴会が始まるのです。

イエス様のたとえでは、花婿を出迎えるためにランプが用意されていました。しかし何かの事情で、花婿の到着が遅れたのです。そして花婿を待つ10人の乙女はいずれも眠ってしまったのです。そこに花婿到着の知らせが届きます。10人の乙女はあわてて起きて準備しますが、その間に油が無くなっていたのです。5人の愚かな乙女は予備の油を準備しておらず、賢い5人の乙女は準備していました。愚かな乙女たちは、賢い乙女たちに油を分けてくれるように頼みます。しかしそれほど余裕はありません。買いに行くように勧めます。そんな夜中に油を売ってくれるところがあるとも思えませんが、乙女たちはあわてて買いに行くのです。その間に、花婿が到着し門が固く閉ざされるのです。細かいことを言うとユダヤの結婚式は、地域に開かれた行事ですので門が閉ざされるということはなかったと思いますが、イエス様は終末の裁きの時を想定されていますので、それはやり直しがきかないこととして厳しい表現をされているのです。

このたとえでイエス様は救世主を花婿として描いておられます。救世主を花婿として表現するのは預言者時代からの伝統(イザヤ62章5節)でした。その救世主の待望が、やがて終末の待望に変化していきます。そうはっきりとした順番ではないかもしれませんが、新約聖書の時代はちょうどのその変化の時代と考えていいかもしれません。救い主の待望と到来、そして終末の預言が語られているからです。そしてマタイ24章を見ると終末と再臨は突然やってくると考えています。
新約聖書の中で最初にかかれたと考えられているテサロニケの信徒への手紙の第一4、5章を見ると、パウロもすぐにでも終末と再臨がやってくると考えています。それから数十年たって福音書が書かれた時代になると、終末遅延ということが考えられるようになります。平たく言うと、終末がすぐにでもやってくると思っていたのになかなか来ない、どうしてだろうか。そして、それはやがて終末なんてこないんじゃないかと考える人も現れてきたのです。そこで、福音書記者たちは、終末はいつやってくるかわからないから、準備することが大切なのだと強調するのです。

確かに最初に予想されたような世の終わり、終末は、二千年たった今に至るまで来ていません。戦争、大地震や大津波、火山の大噴火、原発事故による放射能汚染、年々巨大になる台風被害、今年私たちが経験しているコロナのような疫病の大発生、さらに激しい災害が予想されます。しかしそれはマタイ24章にかかれているようにまだ終末ではありません。それでは終末は来ないのでしょうか。終末は来そうにないから何も考える必要はないのでしょうか。聖書が言うようにそれがいつ訪れるかは誰もわかりません。

しかし確かに来る終わりの時があります。私たちの死と死後の世界での神様との出会いです。これは例外なくすべての人に確かに来るのです。このために備える必要があるのです。私たちの人生には限りがあります。若い人たちはそれをあまり実感としてとらえることができないかもしれませんが、高齢の皆さんはそれを現実のこととして感じることができるでしょう。いずれにしても、私たちの人生には限りがあり、別の命をもう一度というわけにはいきません。生活の事柄はやり直しがききますが、人生そのものはただ一回限りです。それをどうするかは、自分自身の決断にかかっています。神様から与えられた命、その命を神様の前でどう生きるかが問われています。この問いが、十人の乙女たちの備えの油ではないかと思うのです。聖書的には、この油を聖霊と解釈する考えもありますが、とにかく終わりの時のために目をさまし、その備えをすることが私たちに求められていることだと思います。聖書に生きる道を尋ね求め、祈り、語り合い、愛と奉仕に生きる、いずれもその備えにほかなりません。どこに行くのかわからない、何に向かっているのかわからない現代に生きる私たちは、しっかりと目を覚まして備えたいと思うのです。