2020年10月11日 説教 松岡俊一郎牧師

招かれる人は多いが…

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マタイによる福音書 22: 1 – 14

マタイによる福音書の6章33節に「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」とあります。私たちが神様を忘れ、あまりの多くのことに思い悩んでいる姿に、イエス様が語られている言葉です。この言葉を聞いてハッとさせられます。多くのものを得ようとして毎日あくせくし、必死になっていますが、大切なものが何かを見失っているかもしれないと気づかされるからです。

今日の福音書も天の国についてのたとえが語られています。どのような人が天国、神の国に入ることが出来るかです。
王が王子のために婚宴を催します。この婚礼はまさに天の国、神の国の饗宴です。そこでは王が大変なごちそうを用意するように、素晴らしいものが用意されています。しかし招かれた人々が来ません。この招かれた人々とは、律法によって神の国の存在とそこへの招きを知っていた人々です。それは祭司や律法学者たちと言っていいと思います。彼らは神の国のことを知りながら、律法の真意を理解しようとせず、形骸化した儀式を守ること、自分たちの宗教的権威を守ることに一生懸命だったのです。これは場合によっては私たちのことかもしれません。私たちも聖書を通して神の国への招きを聞いているからです。聞いていても、それが生かされていない、そこに生きていないならば、聞いていないのと同じです。

王は次に家来に命じて他の人々を招きます。これはユダヤの一般の人々と言っていいかもしれません。しかし彼らは畑に出かけたり、商売に出かけ、招きに応じようとしないのです。そればかりか、王の家来つまり預言者たちを捕らえて乱暴し殺してしまうのです。招きに応じようとしない人々は、目先の生活に一生懸命で神の国に無関心な人々です。これも突き詰めると聖書の時代のユダヤ人だけでなく、私たちと言えるかもしれません。さすがに私たちは預言者的な働きをする宗教家に乱暴を働き殺すようなことはないかもしれません。しかし、目の前の生活や価値観に捉えられて神様を忘れてしまっている、神様と自分の実生活は別物、後回しにしていると言えるかもしれません。

話は飛躍しますが、女性会の例会でも申し上げたのですが、私はこの新型コロナウィルスのために礼拝が出来なかったことは、それを教えてくれたように感じています。生活に追われ、生活を優先して、礼拝の大切さに目を向けていなかったように思います。目を向けていなかったというより大切さを感じていなかったと言っていいかもしれません。しかし実際に礼拝が出来ない、み言葉を限られた仕方でしか聞けない、交わりが出来ない生活が強いられました。そういう生活を初めて経験したことで、いかに自分にとって礼拝が大切なものであったか、教会の交わりが必要なことであったかをかえって思い知らされたように思うのです。

さて、神様の言葉に聞き従わない人々に対して、神である王は、激しく怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その街を焼き払うのです。これは、ユダヤの歴史が経験した外国の侵略を表しているかもしれません。聖書は列強の国々のユダヤ侵略を神の裁きと理解しているからです。そして王は家来たちに街角にいる人々を招くように命じます。これは招く相手がユダヤ人から外国人に代えられた初代教会の姿を現していると思われます。ふつうはここで一つの話が成立します。救いがユダヤ人から異邦人に訪れたと理解されますし、救いが一部の宗教的権力者だけでなく、むしろ弱者である一般の庶民に与えられたという新約聖書の流れに沿っているからです。

ところがイエス様のたとえはこれで終わりません。王は婚礼に来た人が礼服を着ていなかったという理由で、縛り上げ、外に放り出すのです。ある意味私たちの予想を大きく裏切ります。私たちに大きな戸惑いを与えます。普通であれば、私たちは自分のありのままの姿で、自分を神様の前にさらけ出すことが大切だし、それを神様は受け入れてくださると考えているからです。礼服が必要なのか、かしこまる必要があるのか、何か装いが必要なのかと疑問に思ってしまいます。礼服とは何でしょうか。

ヤコブの手紙2章14節には「わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っているという者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことが出来るでしょうか。」とあります。私たちはマルティン・ルターが、ローマ書にあるパウロの「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです」というみ言葉によって導かれた「信仰のみ」という理解が染みついていますので、行いというものを軽視する傾向があります。しかし、今日の個所ではマタイは、礼服という事の中に、行いということも考えているふしがあります。誰でも招かれています。しかしそこに集うには、神の前に立つ者としてふさわしい姿で立つ必要があるのです。多くの人が招かれているのは確かです。しかしその人は招かれたものとしてのふさわしい生き方が求められるのです。確かにこの考えは、注意しなければなりません。ルターが問題としてように、行い、行為を救いの条件にしてしまう危険があるからです。

それでは改めて礼服とは何か。それは招かれた者として、救われた者として感謝と敬意をもって神の前に立つことです。それが信仰ではないでしょうか。誰でも救ってくださるから大丈夫だというような甘えではなく、逆に自分で救いの条件を作るのでもなく、神様を神様と信じ、救いを感謝し、ふさわしい信仰を持って立ち、神様が求められる愛の生活を生きるのです。