2020年8月23日 説教 松岡俊一郎牧師

神の働きとしての告白

マタイによる福音書 16: 13 – 20

私たち日本人は、江戸時代であれば、藩主や城主という自分たちを支配する人がいましたし、家族制度の中では家長である父親が絶対的な存在でした。戦前であれば、天皇という絶対的な存在があり、縦の主従関係が存在しました。しかし、今の私たちにはそのような存在はいません。天皇も国民の象徴であって支配者ではありません。会社勤めをしている人にとっては、仕事という限られた関係では縦関係が存在しても、生活や命を左右するような関係ではないと思います。そのように考えると、今の私たちは自分を支配する人、絶対的に仕える人や関係がないと言えるといえます。そのような私たちは神様をどのような存在として受け止めているでしょうか。本当に絶対的な存在として、仕えるべきお方として考えているでしょうか。

さて、イエス様は弟子達を連れて、フィリポ・カイザリアに行かれました。ここはガリラヤ湖の北40キロに位置し、ヘルモン山の南のふもとにあたります。ヘロデ大王の子で地方領主であったフィリポがローマ皇帝カイザルに敬意をはらってカイザリアと命名しました。ここは異邦人の町でローマの神パンが祀られており、パネアスとも呼ばれていました。ここは今でも岩穴から大変きれいな水がこんこんと湧き出ていて、そこにローマの神々が祭られていました。そしてまさに異教の神が祭られている唯中で、イエス様は弟子達に「人々は私のことを何者と言っているか。あなたがたは何者というか。」と問われたのです。つまりイエス様を誰と言うかによって、弟子達にとってのイエス様をどんなお方とみているのか、ひいてはイエス様との関係をどのように捉えているかがわかるのです。

弟子達は人々が「洗礼者ヨハネ、エリヤ、エレミヤ、他の預言者」と呼んでいることを伝えました。この時点では、弟子達はそれほど深刻な問いとは気づきませんでした。人々の一般的な評判を答えるだけでよかったからです。しかしイエス様は「それでは、あなたがたはわたしを何者というか」と問われたのです。この問いは弟子達に直接浴びせられたのです。一般的な答えではすみません。自分の信仰が問われているといっても過言ではありませんでした。するとシモン・ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。イエス様は「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。」とその答えに満足し祝福されました。そしてさらに「あなたにこのことを現わしたのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」と言われたのです。シモンと呼ばれていたペトロにここではじめて「ペトロ」という名前を改めて与えられます。ペトロとは岩という意味です。ここで思い出していただきたいのですが、マタイ7章24節以下です。「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」とあります。ここでの岩とはみ言葉のことです。つまりシモン・ペトロがイエス様のみ言葉に聞き、み言葉に立つとき、彼は天の国の鍵を持つことになるのです。

それにしてもわたしは、イエス様の厳しい問いかけに対して、シモン・ペトロがよく模範的な答えが出来たなと感心します。シモン・ペトロといえば、イエス様が受難予告をされたとき、「そんな事はあってはなりません」とそれを否定し、イエス様に「サタン、引きさがれ。あなたは私の邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」と叱られています。イエス様が弟子達の足を洗われたとき、「決して洗わないでください」といったん辞退したものの、「わたしと関係がなくなる」とイエス様に言われると、「それでは足だけでなく手も頭も」と調子に乗っています。さらに最後の晩餐の時、イエス様が「今夜、あなたがたは皆、わたしにつまずく」と言われると、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言い、イエス様から「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うだろう」と預言されると、イエス様が捕らえられた時、三度もイエス様を知らないと否定したのです。このようにペトロは一番弟子でありながら、どこまでもおっちょこちょいに見えますし、イエス様の御心も十分に理解していない。理解していないどころか、一番大切な場面でイエス様を裏切っているのです。このようなペトロが立派な信仰告白をしていることは私たちにとっては驚きです。

しかしその秘密はイエス様ご自身の言葉にありました。「あなたにこのことを現わしたのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」という言葉です。つまりペトロの信仰告白は、ペトロ自身の信仰に由来するのではなく、父なる神様の働きと促しによって起こったものなのです。わたしたちの心はいつも揺れています。しっかりしているようであってもちょっとした危機が訪れると途端に迷ってしまいます。神様のこと、イエス・キリストを信じるといっても自信がありませんし、自信を持ったところで、その熱が冷めてしまったり、人間関係によって信じる気持ちにまで揺らぎが起こるのです。その意味で私たちの信仰もまた、実に当てにならないというのは言いすぎでしょうか。その当てにならない信仰であっても神様がそれを支え、保ち、成長させて下さるのです。それはどのような方法によってでしょうか。

私たちは礼拝式の中で使徒信条やニケア信条を唱えます。その朗読は、一見、機械的です。正直なところ心がこもらない日もあれば、式文を見ないで言うと言葉を間違ったりもします。しかしそれでも、教会は礼拝式を通して信仰告白を唱えることを求めます。それは信仰告白を唱え続けることによって、わたしたちの心のコンディションに関係なく、信仰告白が私たちの信仰を支えるからです。信仰告白は、2000年に渡る教会の信仰と信仰者の信仰によって培われ、人々の信仰を支えてきたものです。信仰告白は神様が現わしてくださったものであるからです。

パウロはローマの信徒への手紙で「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表わして救われるのです」と言っています。ヤコブの手紙1章22節には「み言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。」と言い、また「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」と言っています。私たちは、私たちの信仰を、神様の働きによって言い表し、それを実践することが必要です。それが頼りなくても、弱弱しくても、神様がそこで働いてくださいます。私たちは神様が働く器です。器として用いられていることを喜び歩んでいきましょう。