2020年8月2日 説教 松岡俊一郎牧師

平和を作る掟

エフェソの信徒への手紙 2: 13 – 18
ヨハネによる福音書 15: 9 – 12

日本にとって8月は、6日の広島原爆祈念日、9日の長崎原爆祈念日、15日の敗戦記念日とお盆、大勢の方々が戦争の犠牲になられたことを覚える月です。その意味で8月は、平和を祈る月と言ってもいいと思います。しかし今年は、私たちの頭の中は新型コロナウィルスのことでいっぱいです。テレビのニュースは多くをその情報で占めていますし、私たちも今日の感染確認者の数に気を取られ、外出自粛を求められ、窮屈な思いをしている反面、Go Toトラベルで旅行に行けと言われて振り回されています。

さて、ニュースにならないからと言って、世界で戦争や紛争がなくなったわけではありません。新型コロナウィルスとの闘いがある一方で、人と人との争いは絶えないのです。世界では、戦争には発展していないとしても、領土・領海、経済、情報などあらゆる面で国と国とが争っています。ことに最近は中国とアメリカの対立が高まっています。日本は地理的にも経済関係的にも間にあって、難しい対応を迫られています。

私たちはこのような競争や対立があることを、人間関係でも仕事の関係でも、そして国際関係でも当たり前として受け入れているようなところがあります。現実がそうなのだから仕方がない、それに対抗して自分も力をつけなければならないと考えます。抑制的な気持ちはあるものの、「目には目を歯には歯を」ならぬ、「力には力を」の考えに根差して暮らしているのです。

旧約聖書の日課の預言者ミカは、第一イザヤとほぼ同じころ、ユダの王ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に活躍した預言者です。ミカ書の冒頭に三代の王が書かれているという事は、三人の王の治世が短かったこと、政情が不安定であったことを物語っています。事実、ヨタムが7年、アハズが16年、ヒゼキヤが29年でした。特にアハズ王は強大な隣国アッシリアに従い偶像礼拝をしたため、旧約聖書の中では背教者とされています。そのような不安定な政情の中で、預言者ミカはイスラエルの回復を預言するのです。特に3節「主は多くの民の争いを裁き、はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。」と預言します。この預言者の言葉で大切なことは、自分たち人の力でそれを成し遂げるのではなく、神がそれを実現されるとしていることです。私たちの世界は、人の知恵、人の論理、人の力にのっとってすべてを解決し、相手を制し、己の利を実現しようとしている世界です。神なき世界ではそれは無理もないことなのかもしれません。しかし肯定はできません。それでは真の平和は実現せず、争いは繰り返されるのです。

私たち個人の関係も同様です。不安や苛立ち、不満や怒りに動かされて、自分の正義を絶対化し、人を批判することに自分のアイデンティティを感じ、中には攻撃することに快楽を覚え、クレームやバッシングが蔓延しています。インターネットを始め、私たちの周りにはそのような風潮が蔓延しています。その行きつく先には、平安はなく、傷つけあう事しかありません。他者への攻撃は、相手を傷つけることだけでは収まりません。実はその人自身の心も怒りから逃れられず、平安も奪うからです。クレームやバッシングをする人は、自分は言ってやったと勝ち誇った気持ちになるかもしれません。しかしその実、その人も怒りや攻撃の心に捕らわれてしまっているのです。

イエス様はそのような私たちに「愛にとどまりなさい」と言われ、「わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる」とも言われています。ただ愛にとどまりなさいと言われるだけでなく、掟を守るというその方法まで教えてくださるのです。その掟は「わたしがあなた方を愛してように、互いに愛し合いなさい。」ということです。イエス様は一方的に愛することを押し付けておられるのではありません。イエス様が私たちを愛してくださった、その愛に促されて私たちも愛し合うのです。愛されていることを知らなければ、愛することはできません。しかしイエス様の十字架によるゆるしと愛に気づくとき、私たちは、それまで自分の思いに凝り固まっていた心が解放されて、自分自身をゆるし、自由にし、他者との関係を見直すことが出来るのです。そもそも私たちは自己中心的な罪にまみれています。人よりも自分の利するところを求め、自分が不利になることは絶対的に受け入れられません。それでも神様から与えられた良心や小さな愛は持っていますが、多くの場合、罪に負けてしまいます。だから争いは絶えないのです。しかしイエス様はそんな私たちをゆるし、私たちに真実の愛を教えてくださいます。そしてその愛こそが真の平和を実現するカギだと教えてくださるのです。パウロはエフェソの信徒への手紙2: 14で「実に、キリストは私たちの平和であります。二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊」された。と言っています。そして「十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」と述べています。イエス・キリストこそが平和の礎です。この礎に立たなければ、私たちの間に平和は実現しません。

しかし私たちの世界はこの礎を知りません。知っているはずの私たちも忘れてしまっています。どんなに私たちが生きている社会が力を頼りにする社会であっても、私たちは力を頼りにするのではなく、イエス様が与えてくださった愛の掟の法則にたって生きていきたいのです。世界平和は一気呵成に実現するものではありません。まず私が主の平和と愛に満たされることが必要です。私の内にある、妬み、苛立ち、敵意、争い、攻撃的な心など、まずその思いに打ち勝ち、自由になることが大切です。そしてイエス様はそれを実現してくださいます。そして私たちに愛と寛容、優しさと慈愛、他者への尊敬といたわり、感謝と奉仕を生み出してくださるのです。そのような信仰はこの世の論理の中では弱く見えます。意味がないように見え、力がないように見えます。しかし、そうではありません。まず私自身が変わることから始まります。そして私が平和の使者となってキリストの愛と平和を伝えることが求められているのです。

説教の録画をYouTubeでご覧になれます。