2020年7月26日 説教 鈴木亮二氏(信徒)

天の国とは

ローマの信徒への手紙 8: 26 – 39
マタイによる福音書 13: 31 – 33, 44 – 52

最近頭の中からすっかり抜け落ちていたのですが、本来であれば3日前に東京オリンピックが開会していたということを、テレビのニュースを見て思い出しました。
今の日本、そして世界はオリンピックのことを考えるという状況ではないということは皆さんご承知の通りです。今年になって感染が報告され始めた新型コロナウィルスは、最近になってまた感染者の増加が日ごとに報道されて不安が増しています。特にこの状況の中で、GoToキャンペーンなるもので政府が補助金を出すことによって人の移動を奨励するキャンペーンが東京だけを除外して始まりました。人と人との接触によって感染が広まっていくことがわかっている病気に対して急ぎ過ぎだと思いますが、経済が停滞している中で難しいところでもあります。
新型コロナウィルスは世界中で猛威を振るっていますが、日本では豪雨によって今年も多くの被害が出ています。大岡山教会でも救援募金をしている九州地方だけでなく、岐阜県や長野県でも大きな被害が報道されています。仮に新型コロナがなくてオリンピックが開催されたとしても、浮かれた気分にはなれない状況だったでしょう。

今日の福音書は、天の国についてのたとえが書かれています。天の国とは神の国と同じことです。そして神の国とは神様が支配する世界のことです。
イエス様は「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って宣教を始められました。また、弟子たちを宣教に派遣するときにも「天の国は近づいた、と宣べ伝えなさい」と命じました。ですから、宣教を受ける人たちに天の国とはどんなものであるかをいろいろな場所でいろいろな言葉で伝えました。
今年のペリコペーであるマタイによる福音書には、天の国についてのたとえが11箇所も出てきます。先週の箇所もそうでした。そして今週の福音書には天の国について5つのたとえが書かれています。その他にも5箇所も書かれているのです。
イエス様にとってはそれだけ天の国を迎える準備を伝えることが大切だったでしょうし、それを受け取る人たちにとっては天の国を理解することが難しいことなのです。

今日の福音書での、天の国のたとえは3つのものに整理することができます。

ひとつ目は、「天の国は最初小さいものが最後にはとても大きくなる」ということです。
からし種は大岡山教会の週報の名前にもなっていますが、1ミリにも満たない小さい種だそうです。週報の名前はきっと「からし種一粒ほどの信仰があれば」という聖句から採られたのだと思いますが、これもほんの小さい信仰を持っていればということです。
パン種のたとえも同じグループに整理できます。パン種は生地を膨らませるためのイースト菌ですね。子どものころ、母親がパンを作るときボールの中に入っている小さな丸い生地が大きく膨らむのをわくわくしながら見ていたのを思い出します。ここで「三サトンの粉に混ぜる」と書いてありますが、サトンという見慣れない単位で書かれていますのでどれくらいなのかを調べてみました。サトンというのは体積・容量の単位で、聖書の巻末にある単位表を見ると1サトンは12.8リットルと書かれています。3サトンでは大体40リットルくらいですからバケツ3杯くらいの量になります。一方パンを1斤作るには、クックパッドを見てみると強力粉250グラムくらい必要で、1カップ(200ミリリットル)が110グラムくらいですから、3サトンの粉では80斤以上のパンができるという計算になります。バケツ3杯の粉が何百人分ものパンになってしまうのはすごいことだと思います。

二つ目は、「天の国は、見つけたらすべてを投げ打ってでも手に入れるもの」ということです。
畑の中で偶然に宝を見つけた人は、自分の持ち物をすべて売り払って畑ごと買い取ります。竹藪から札束が出てきたようなたとえですが、この時代は戦争や盗賊から財産を守るために土の中に財産を隠しておくことがあったそうです。このたとえを聞いた群衆にとってはあり得る話だったのでしょう。
良い真珠を探していた商人は、それを見つけるとやはり持ち物をすべて売り払って買い求めます。真珠は聖書の時代にはとても貴重な宝石でした。ヨブ記28章には「さんごや水晶は言うに及ばず、真珠よりも知恵は得がたい」と書かれていますし、他にも「真珠よりも貴い」という比喩が聖書に書かれています。

そして三つ目は、「天の国は、世の終わりに良い者と悪い者がより分けられる」ということです。
先週の箇所は、良い麦と毒麦が刈り入れのときにより分けられるというたとえでしたが、このたとえは三つ目のものと同じものとしてまとめられます。
湖に投げ降ろされて網にかかったたくさんの魚は、引き上げられたときに良いものと悪いものとにより分けられます。

天の国は、先週と今日の福音書に書かれている六つのたとえでも3つに整理することができます。マタイによる福音書に書かれている残りの5つの天の国についてのたとえでも違う意味として整理できるものがあります。天の国とはこのようなもの、と一言では説明できないものなのです。
「天の国は近づいた」と言って宣教するイエス様は、ユダヤの様々な町で天の国について宣べ伝えました。おそらくその度に「天の国は近づいたと言うが、天の国とはどんなものでしょうか」と聞かれたでしょう。イエス様は天の国について群衆が理解しやすいように何度も何度もたとえを用いて話されました。

群衆は天の国について理解できたでしょうか。聖書には天の国についていくつものたとえが書かれています。群衆にとって天の国を理解することは難しかったのではないでしょうか。
弟子たちはどうでしょうか。最後の部分でイエス様は「あなたがたは、これらのことがみな分かったか」と尋ね、弟子たちは「分かりました」と答えます。しかし弟子たちも理解できた者はいなかったと思います。イエス様が地上で活動していたとき、弟子たちはいつもイエス様と一緒にいました。聖書にはイエス様が弟子たちに対して「まだわからないのか」としかられる場面が何回も出てきます。イエス様が十字架に架かって死んで復活すると話したときも、「そんなことはありません」と言います。イエス様が復活されても、その姿を見なければ信じられませんでした。弟子たちがイエス様の証しを力強く始めることができたのは、ペンテコステで聖霊が降ってからでした。子どものころラジオに「子ども電話相談室」という番組がありました。回答者の一人に、答えている中で「分かる?」と話す人がいました。子どもは電話口で「はい」と答えます。でもその声は頼りなくて本当は分かっていないような声です。弟子たちの「分かりました」も同じくらい頼りなかったような気がします。
それでは私たちはどうでしょうか。今日の説教では速足で天の国の3つの面について話しましたが、こんな簡単な説教では皆さんも「ああ、なるほど」とお分かりになれなかったかもしれません。それ以前に、私自身も本当に天の国について理解しているのかと聞かれたら、胸を張って答えられるか不安です。

イエス様は「あなたがたは分かったか」と弟子たちに尋ねます。イエス様は群衆に対して多くのたとえで話をされましたが、弟子たちにもそれ以上にたくさんの話をしてきました。そしてその最後にはいつも「あなたがたは、みな分かったか」と尋ねたのではないかと思います。
イエス様は弟子を見捨てることはしません。どんなにものわかりが悪くても、弟子がイエス様を知らないと見捨てても、イエス様は離れることなく弟子と一緒にいました。復活されたときにも、部屋を閉め切って閉じこもっている弟子たちの真ん中に立ち「あなたがたに平和があるように」と祝福されます。
今日の使徒書の日課であるローマの信徒への手紙の中で、パウロは力強く語ります。異邦の地への伝道で迫害を受けて祈る言葉を失っているとき、聖霊が神様との関係を執り成してくださる。復活されたイエス様が私たちのために執り成してくださる。私たちは神様によって義とされたのだから、誰も私たちと神様との関係を引き離すことはできない。このパウロの言葉は、イエス様がパウロと一緒にいて「パウロよ、お前が語るべきことは分かっているな」といつも語りかけてくださっているからこそ、自信をもってローマの信徒たちに書き送っているのです。

イエス様は、いつも私たちと一緒にいてくださいます。そして私たちを執り成し、私たちと一緒に祈ってくださいます。豪雨災害で被害に遭った方々、目に見えないウィルスによって不安を感じている方々が今も多くいる日々ですが、イエス様がいつもそばにいて、私たちに語りかけてくださっていることを覚えていきたいと思います。

説教の録画をYouTubeでご覧になれます。