2020年6月28日 説教 小林恵理香氏(信徒)

共にキリストの恵みにあずかる為に

ローマの信徒への手紙 6: 12 – 23
マタイによる福音書 10: 40 – 42

ルーテル教会の聖書日課は3年サイクルになっており、3年に一度同じ聖書個所を読むように定められています。今年は3年の内のA年にあたり、私たちはマタイ福音書を中心に日課を読み進めています。本日の福音書箇所はマタイ10: 40 – 42ですが、過去の日課ではマタイ10: 34 – 42でした。

マタイ10章は、イエス様が12人の弟子を派遣するにあたり、弟子たちに宣教の方法や心構えを教えられる箇所です。弟子たちが迫害されることを前提とした教えですから、随所で厳しいことが言われています。マタイ10: 34 – 39は「平和ではなく剣を」という見出しがついており、その中には「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わないものは、わたしにふさわしくない。」というかなり衝撃的な言葉がありますので、この聖書日課を読むときは、イエス様に従うことの覚悟を問われているような気がしたものです。

福音書の日課がマタイ10: 40 – 42に限定されているということは、今日、私たちはこの箇所が伝えるメッセージに集中する必要があるということです。

この箇所では、弟子たちを受け入れる人には必ずその報いがある、ということが語られています。この教えは、弟子たちに向けた言葉ですから、世の中の人に対して「弟子たちを受け入れるといいことがありますよ。だから弟子たちを受け入れてください。」と言っているわけではありません。イエス様が弟子たちに伝えたかったのは、弟子たちが宣教されることの意義です。

なぜ弟子たちが狼の群れに羊を送り込むような状況に置かれなければならないのか、なぜ自分の十字架を担ってイエス様に従うほどの覚悟を要求される立場に立たされるのか、それは、弟子たちが派遣されることにより、弟子たちを受け入れる人に必ず報いをもたらすことができるからです。

「あなたがたを受け入れる人は、私を受け入れ、私を受け入れる人は、わたしを遣わされた方をうけいれるのである。」と言われています。弟子たちを受け入れることは、イエス様を受け入れ、延いては父なる神さまを受け入れることになる、弟子たちが派遣されることはそれほど大きな効果をもたらすものなのです。

「受け入れる」という日本語の言葉には、相手を認める、相手に同意するという意味合いが感じられ、誰かに受け入れてもらうためには、弟子たちにそれなりの力量が必要だと思われるかもしれません。

しかし、ご存じのように、弟子たちはイエス様の教えを正しく理解せず、自分たちの中で誰が一番偉いかと言い争ったり、イエス様が捕らえられたときに逃げたり、イエス様のことを知らないと言ったりするような存在です。弱く、身勝手で、イエス様が言われたことを実行する力もないような存在です。

そんな弟子たちであっても、預言者を受け入れる人が預言者と同じ報いを受け、正しい人を受け入れる人が正しい人と同じ報いを受けるように、弟子たちを受け入れる人にも必ず報いが与えられるとイエス様は言われます。ここでは、直前の箇所で語られていたような、イエス様にふさわしいかふさわしくないかの話は、一切、話題にされていません。

英語やドイツ語の聖書を見ると、「受け入れる」と書かれている箇所は、「歓迎する」という意味の単語が使われています。弟子たちを受け入れる人は、イエス様を受け入れることになるとは、すなわち、派遣された弟子たちを歓迎する人は、イエス様を歓迎することになる、ということです。

弟子たちは、イエス様の教えを雄弁に語ることも力ある業を行うこともできなかったでしょう。誰かに歓迎してもらっても、その恩に報いられるようなものは何も持ち合わせていませんでした。しかし、弟子たちに出会うことで、イエス様に出会うことになる人が必ずいるのです。たとえ冷たい水を一杯飲ませてあげる、という最低限のもてなしであっても、そこには神様からの報いが約束されています。弟子たちがイエス様の弟子として世に出ていくことには、これほどまでに大きな意味が与えられていることが分かります。

ローマ6: 23 には、「神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」と書かれています。弟子たちを受け入れることで与えられる報いは、イエス様による永遠の命です。

あなたがたは小さい者かもしれない、迫害を受けたり、人々に憎まれたりすることがあるかもしれない、でもあなたが派遣されることは、神様が約束される永遠の命を届けることになるのだ、私に会ったことがない人にも、あなたに与えられているのと同じ恵みを届けるために、あなたたちは遣わされるのだ、そのようなイエス様の言葉が聞こえてくるようです。

その言葉は、弟子たちの派遣に端を発し、巡りめぐってイエス様に出会った現代の私たちにも向けられる言葉です。私たちがどんなに力ない存在であっても、自分には何もできないと感じることがあっても、神様ご自身が私たちを通して働かれるために、私たちも遣わされています。自分の足りなさに目を向けるのではなく、神様が私たちの存在に意味を与えてくださっていることに感謝したいと思います。

私たちは、この世に対して遣わされていると同時に、互いのもとにも遣わされている存在でもあります。あるときは一杯の冷たい水をいただく側にあり、あるときは冷たい水を差し出す側になります。

イエス様は、弟子たちに繰り返し「互いに愛し合いなさい。」と教えられました。イエス様の弟子を受け入れることがイエス様を受け入れることになるのですから、互いに愛し合うというのは、互いのうちにあるイエス様を共に受け入れるということになります。

個人的なことですが、私が勤める会社では、今年の4 月1 日から最近まで、出社しての勤務が原則禁止され、職場で同僚と顔を合わせることも、一緒に食事をしたり話したりすることもできなくなりました。各自、自宅から仕事をするのです。会社に行く代わりに使うのは、パソコンをつかったビデオ会議です。私たちは、ビデオ会議を使って、互いの顔を見、互いの声を聞きます。それは、直接会うこととは程遠いですし、パソコンを操作する上での不便もあります。それでも、ビデオ会議の仕組みがあることによって、離れた場所にいながらも互いの存在を身近に感じ、互いにつながっていることを喜ぶことができるのです。

現代の私たちがイエス様を受け入れるということは、このビデオ会議のような役割が介在することで実現するように思います。私たちは、直接イエス様に会うこともイエス様の声を聞くこともできませんが、イエス様が遣わされた誰かを歓迎することを通して、私たちもイエス様を歓迎することになるということです。私たちがイエス様に従うということは、自分とイエス様との間だけで完結するものではなく、他者との関係のうちに実現されることに気づかされます。

私たちは、今日、共に集う礼拝を通して、また、それぞれの場にあって祈りを共にすることを通して、互いの中に生きておられるイエス様と出会い、イエス様の恵みを受け取りたいと思います。そして、その恵みを携え、どなたかと恵みを分かち合うために、社会へと遣わされていきたいと思います。

「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の1 人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」イエス様の力強い約束が、私たちを裏切ることはありません。