2020年6月14日 説教 松岡俊一郎牧師

憐み、選び、派遣

マタイによる福音書 9: 35 – 10: 8

私たちが今経験している新型コロナウィルス・パンデミックは一過性のものではなく、一つの時代と社会の大きな変化の節目とする考えがあります。ポストコロナとかウィズコロナと言われ、コロナ後あるいはコロナと共に歩む新しい生活様式です。正直私はこのことを受け留めきれないでいますが、コロナがおさまった後は以前と同じ生活に戻るのではなく、新しい生活スタイルに変わる必要があるというのです。そこでは教会も当然そうなります。私は、教会は教会に集う礼拝が基本で、集い、み言葉を受け、聖餐の交わりによって強められ、愛と奉仕の業に派遣されると考えています。その意味では礼拝に集うという事が出発点です。ですが、この集うということが、新しい生活様式では難しくなりそうなのです。ソーシャルディスタンス、フィジカルディスタンスと言われるように、離れて集う必要があるのです。礼拝堂の工事が完成した暁でも、言われているような距離を保ってすわることは難しそうです。それでは一体どうしたらいいのか。正直まだいいアイディアが見つかりません。先日、江口再起先生が指摘されていましたが、東日本大震災の時には宗教者の働きが期待され、活躍されましたが、今回このコロナウィルスに関しては医療従事者に注目が集まり、活躍され、宗教界は置いてきぼりになっているように思います。この事態に教会も戸惑い明確な指針を出せないでいるように思います。私たちはどうしたらいいのでしょうか。

イエス様は人々の姿を見て、あてもなく目の前の草をついばむ飼う者のない羊を連想されました。彼らは弱り果て打ちひしがれていました。神様の憐れみと力が必要です。そして弟子達を呼び寄せ、汚れた霊を追い出し、あらゆる病気やわずらいを癒す力をお与えになり彼らを派遣されました。
この飼う者のない羊のように弱り果てた民衆とは誰でしょうか。イエス様の目に映ったのは、ローマ帝国の支配の中で重い税金をかけられ貧しい生活をしながら、一方ではユダヤ教の厳しい宗教的戒律の中で、窮屈な思いをしながら必死になって生きている民衆の姿でした。そこには喜びも解放感もなかったのでしょう。現代に映して考えるならば、新型コロナウィルスに翻弄されている私たちの姿なのかもしれません。医療的には必死の取り組みがなされ、経済社会を何とか維持回復させるための努力がなされていますが、ひとりひとりの心に目を向けることは忘れられているように思います。ストレスや不安が表に出ることなく、個人の心の深いところに蓄積されているのです。

マタイ福音書が書かれたのは、イエス様が生きておられた頃から40年以上後のことです。そこには当時の教会の状況がありました。10章5節以下を見てみますと、イエス様は「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われたところへ行きなさい」と言われています。この言葉も当時の教会の事情を反映しています。私たちの時代のキリスト教は世界宣教、地球規模で宣教を考えることが当然ですので、この言葉は大変偏狭に聞こえます。マタイの時代の教会にはいくつかのグループがありました。一つはユダヤ教の影響を強く残したグループです。彼らは、福音はまずユダヤ人に告げられるべきだと考えていましたし、外国人がイエス様を信じる場合であっても、洗礼だけではなくユダヤ人の割礼の儀式を受ける必要があると主張していました。このような背景もあってガラテヤの信徒への手紙では、パウロがペトロを次のように非難しています。
「ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れて尻込みし、身を引こうとしだした。」もう一つのグループとはパウロが最終的に身をささげて伝道した外国人への伝道です。このグループであっても、教会の中において私はパウロにつく、私はアポロに、とリーダーをめぐる分裂がおこっていました。

現在の私たちの教会において飼う者のない羊のように弱り果てた民衆とは、誰でしょうか。まずは、教会に来てイエス様を求め、み言葉を求めている私たち自身でもあります。私たち自身も日常の生活や仕事の変化に疲れ果て、迷い、弱り切っています。このような私たちがまず慰められ、癒され、喜びに満たされなければ、どうしてイエス様を人々に伝えようという動機が生まれるでしょうか。それが正直な思いではないかと思います。しかし一方で、私たちはイエス様のみ言葉、十字架の救いを知っているだけで、どれだけ慰められ、励まされているでしょうか。喜びに充ち溢れてルンルンと伝道に励むまではいかないにしても、頼るべきところを知っているということはどれだけ平安なことではないでしょうか。むしろそれを知らないで、孤独の中で厳しい現実と戦っている人がどんなに多いことかと思うのです。

しかしイエス様の弟子達の派遣を考えてみると少し違うことに気が付きます。弟子達は自分たちが完全に慰められてから、彼らがイエス様の教えを十分に理解してから、信仰が完成してから、準備が整ってから派遣されたのではありませんでした。彼ら自身まだ弟子として選ばれたばかりで不安を抱きながら、何を話したらいいだろう、何をしたらいいだろうと心配しながら彼らは送り出されたのです。さらに9節にあるように「帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れていってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持っていってはならない。」とまで言われているのです。何の準備もなしに、何の保証もなしに派遣されているのです。そこにあるのはイエス様が遣わされるということ、「働く者が食べ物を受けるのは当然である」という約束だけでした。そしてそこには約束だけで、保証は何もなかったのです。つまりイエス様の派遣は、私たちにとっては中途半端な状態、イエス様の約束以外に頼りにするものは何もない派遣なのです。
そこには当然失敗もあるでしょう。計画や準備があっても失敗はつきものです。ましてやイエス様の約束だけを信じて歩む教会の伝道には失敗はつきものなのです。14節以下を見ると、イエス様は失敗の責任を弟子達のせいにはされませんでした。その責任は、み言葉を受け入れなかった人々と神様の間で問題とされる事柄なのです。私たちは伝道に励む、イエス様の福音とみ言葉をできるだけ多くの人に伝え、イエス様と出会うチャンスを提供するだけです。

「収穫は多いが働き人は少ない。」それでもイエス様は、収穫は多いと約束を与えておられるのです。働き人が少ないと言われれば、「わたしを用いてください」と答える以外の返事があるでしょうか。私たちは今は備えの時です。自分たちの礼拝を守るだけで精一杯です。しかし、宣教の拠点が与えられた暁には、主の召しに答えて歩みだしたいと思うのです。