2020年6月7日 説教 松岡俊一郎牧師

私たちを守る神様の姿

マタイによる福音書 28: 16 – 20

これまで私たちの教会は、新型コロナウィルスの感染防止のために十回に渡って礼拝を休みました。礼拝を休むことは、これまで大岡山教会を始め多くの教会が経験したことがないことでした。今でも、新型コロナウィルスはまだ終息したとはいえませんので、正直恐る恐る礼拝を始めたといってよいと思います。そして礼拝堂の工事のために幼稚園の保育室を使っての礼拝という、これまたいつもと違う環境での礼拝で戸惑われている方も多いと思います。正直私も手探りで緊張しています。しかし、この二か月半に感じたことは、普段当たり前と思っていた礼拝がとても大切なものであることを知ったことです。この二か月半、空虚感、不安感、孤独感、時には罪悪感のような思いなど様々な思いがよぎりました。しかし今日、皆様と一緒にこうして礼拝をもつことが出来て、それらのマイナスの気持ちが礼拝の大切さを知るプラスの経験として私は受けとっています。神様と皆様に心から感謝いたします。

さて、これまでの二回の日曜日は、イエス様が天に昇られた昇天の日、そして弟子たちに聖霊が降った聖霊降臨祭でした。続いて今日は三位一体主日です。これまでの二回はイエス様の姿や動きにまつわる日曜日であったのですが、今日はむしろイエス様の本質そのものについて語る教義的な主日と言って良いと思います。ただ与えられたマタイ福音書の日課は、昇天の前にイエス様が語られた言葉が選ばれています。いわゆる「大宣教命令」と呼ばれる個所です。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」イエス様はここですべての権能を授かっていると言われます。父なる神と一つであり、父がもっておられる権能を私に与えられていると言われます。そしてその上で弟子を派遣されるのです。それはイエス様が父なる神の権能を持ち、その権能を弟子たちに託しておられると言っていいと思います。イエス様ご自身がすべての人を弟子にするのではなく、弟子たちにその使命を託されているのです。
その内容が、「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」と言われていることです。礼拝の最初の祝福、祈りの最後に唱えられる言葉、十字を切ることすべてがこの「父と子と聖霊の名によって」行われ、三位一体の神の名によって行われるという事です。このことについてはまた後で触れます。まず、洗礼を授けるということ。これは、何も教会の会員を獲得しなさいという事ではありません。結果的にはそこと結びつきますが、それが目的ではありません。洗礼を受けるという事は、神様との全き関係に入ること、そのために聖霊を受けること、そしてキリストの愛の教えを生きることです。イエス様が託される命令は、すべての人々がそうなるように弟子たちに働きなさいと言われているのです。つまり伝道です。伝道はイエス様から託された弟子たちの使命なのです。その弟子たちはどんな人々だったでしょうか。ご存知のように、イエス様の十字架の前で彼らは、イエス様を否定し、コソコソと隠れ、散り散りに逃げ惑ったのです。そして今日の個所では、復活の主に出会い、主の昇天を前にしても、「しかし、疑う者もいた」と書かれているのです。この期に及んでイエス様を信じることのできない人もいたのです。それは私達かもしれません。しかしイエス様はそのような私たちをも含めて、疑う者、迷う者、躊躇う者をも弟子として受け入れ、使命を託されているのです。

そのような私たちに「父と子と聖霊の名によって」祈り、働くことが与えられています。これは父なる神、子なるキリスト、聖霊がひとりの神であることを言います。私たちは日ごろ、父なる神と子なるキリスト、聖霊なる神を別の存在のようにイメージします。また、父なる神様が天地を創造され、子なるキリストが十字架によってわたしたちを罪から贖ってくださり復活し昇天された。いなくなってその代わりとして聖霊を与えてくださった。聖書を読んでいくとそのように、時系列的に考えてしまいます。しかしそうではなく、この父と子と聖霊であるひとりの神が、いつもどの場所においても私たちと一緒にいてくださるのです。
イエス様は「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられる」と言われ、一つであることを強調されました。また、「聖霊も父から出る」と言われます。従って私たちは「父と子と聖霊の神」をひとりの神として崇めるのです。例年私たちは三位一体主日にはアタナシウス信条という信仰告白を告白します。このアタナシウス信条の前半は三位一体の神を教え、告白する信条です。今年は事情により唱えませんが、そこには明確に三位一体の神がひとりの神であることを告白しています。
イエス様は「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われます。イエス様の誕生の時には、「その名はインマヌエルと呼ばれる」と言われました。このインマヌエルという言葉も「神は共にいてくださる」という意味でした。そして、今や天に昇られるとき、「世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われているのです。イエス様の生涯はこの「共におられる」という約束でくくられているのです。その意味で「共におられる」これは私たちに与えられた神様のキーワードです。三位一体はそれを表しています。そして神は、私たちの心が神様に向かっている時だけに働かれているのではありません。ありとあらゆるとき、それは私たちの心が神様に向いている時もそうでない時も、神様は共にいてくださるという事です。
私たちは礼拝の時、父と子と聖霊のみ名によって礼拝を始め、祝祷の父と子と聖霊のみ名によって礼拝を閉じます。それだけではありません。私たちの人生と生涯もこの父と子と聖霊の神のみ名とともに始まり終えるのです。それは私たちの人生すべてが神様のみ手の中にあることにほかなりません。