2020年5月24日 説教 松岡俊一郎牧師

イエス様は見えなくなったが

ルカによる福音書 24: 44 – 53

私たちは目に見えないものにおびえています。3.11の原子力発電所の事故以来、目に見えない放射能に脅かされ、今は、同じように目に見えない新型コロナウィルスの脅威にさらされています。日ごろは目に見えるものが確かなものとされていましたから、目に見えないという事はことのほか私たちに不安と恐怖を与えます。目に見えないものを信じていなかったのは何も私たちだけではありませんでした。弟子たちもそうでした。復活の主に出会った弟子たちの中には信じられない者、疑うも者もいました。復活の主に出会っても信じられないのですから、天に昇られ見えなくなってしまったイエス様を信じるということ、会ったことがない方を信じるのはひどく難しいと思います。そこに疑いが付きまとうのは当然のことかもしれません。しかし、イエス様は疑う者を退けられません。それらの人々をも受け入れて聖霊を与えられるのです。

今日は昇天主日です。復活のイエス様が弟子達の目の前で天に昇られ見えなくなったという出来事を覚える日です。しかしこの日は単に不思議な出来事を覚える日というのではありません。昇天という出来事の意味、そして同時に語られる聖霊降臨の約束と世界伝道への約束が語られるのです。

わたしたちは礼拝の中でニケア信条を唱えますが、ニケア信条では「見えるものと見えないものの造り主、全能の父である唯一の神をわたしは信じます」と告白しています。見えるものと見えないもの、私たちは見えるものだけでなく、見えないものも存在することを信仰告白の中で認めているのです。しかし、実際にはどうでしょう。見えるものに心を奪われ、頼りにし、見えないものを軽んじて生活しているのではないでしょうか。軽んじるだけならまだしも、あたかも存在しないかのように考えてはいないでしょうか。聖書はそのような私たちを戒めるかのようにイエス様の昇天の出来事を伝えます。「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。」もしこれが現代であればあらゆる科学技術をもってそれを追跡し続けるかもしれません。しかし大切な事は、見えなくなったことの意味です。

復活の主イエスは、そのお姿はすでに神的な存在でしたが、まだ人の側の世界におられたと言っていいでしょう。弟子達の前に現れ、弟子達に語り、弟子達と食事をされていたからです。しかしこの昇天の出来事の後、彼らはイエス様の姿を見ることはできません。ただ、パウロの回心の時、パウロはそのみ声だけは聞くことができましたが、その姿は現わされませんでした。その意味でイエス様は昇天によってすっかり人間の世界から神様の世界に行かれたのです。これは日本的には此岸とか彼岸とかいうのかもしれません。いずれにしても人の生きている世界と神様の世界です。しかしこのイエス様の昇天は、あちらとこちら、此岸と彼岸のその境を渡られた、いや、越えられたというよりは、イエス様によってその境と隔たりがなくなり、人間の世界と神様の世界が一つとされたということではないでしょうか。かねてからイエス様はご自分を父に至る道といわれていました。それはイエス様が通られる道ではなく、イエス様ご自身が道となって私たちを父なる神様とひとつとしてくださったのです。その境と隔たりが取り払われたことは、過去と現在と未来という時間や場所をも越えられたということでもあります。だからこそ、私たちはイエス様の出来事を過去のこととしてではなく、現在のこととして、これからも起きることとして受け止めることが出来るのです。

人が天に召されるとき、お葬式のときには、特に生きている者の世界も死んだ者の世界も、そして過去も現在も未来もイエス様によって一つとされていることが、ことのほか強く感じられる時でもあります。これが見えなくなったことの意味です。弟子達はイエス様が見えなくなって、さらに失望と絶望に突き落とされたのではなく、希望へと入れられたのです。

使徒言行録によると、イエス様は天に昇られるとき弟子達に言われました。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリヤの全土、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」昇天は、神様と私たちが一つとされた完成の時でもあります。しかし、それは人々に伝えられなければなりません。伝えられなければ自然にわかることではないからです。そこで弟子達の力が必要となります。しかし弟子達には、それを知る力も伝える力もありません。弟子達は、赦されたとはいえ、イエス様を裏切った時の姿のままだからです。そのような弟子達が、イエス様の十字架と復活、そして昇天の証人になるには聖霊の働きが不可欠なのです。聖霊の働きがあって初めて証人となることが出来るのです。

この証人としての務めは私たちにも与えられています。こう言うと、いや私たちはイエス様とお会いしたことがない、十字架の死も見ていない、復活にも昇天も目撃していないと言いたくなります。先のことを思い出してください。イエス様は、時間と場所の垣根を取り払い、神様の世界と私たちを一つにして下さいました。従って聖書によって示されていることは、今私の目の前で起こっていることであり、わたしに起こっている出来事なのです。だからこそ私たちはこれを信じる時、イエス様の証人となることが出来るのです。