愛の掟を守る人
ヨハネによる福音書 14: 15 – 21
大岡山教会では、新型コロナウィルスの影響で礼拝堂の礼拝をお休みして、8回目の主日を迎えます。緊急事態宣言は延長されましたが、感染確認者の数は減ってきていますので、今月末には宣言が解除になるかもしれません。しかし教会は現在工事中ですので、礼拝を再開するにしても幼稚園の保育室で行う事になります。当初は一つの保育室に50個の椅子を並べて礼拝するつもりでしたが、それは一番警戒される密状態ですので、違う方法を模索しています。今回の事態を通して感じたのは、当たり前と思っていた皆さんとの礼拝を守ることが出来ないことの辛さと不安感でした。一緒に礼拝に集うことがどれほど支えとなっているかを思い知らされました。やはりキリスト者にとっては礼拝に集う事の意味の大きさと必要を痛感しました。そこにはただ集うというだけにとどまらない、そこに働く聖霊の神様の力があることを確信しました。
福音書の日課は、イエス様の最後の晩餐の席上での言葉です。イエス様はここで別れを切り出されます。しかし弟子たちはイエス様が再三語られた十字架につけられるという予告を本気でとらえていませんし、それを本当の別れと気がついていなかったからです。それをショッキングな形で思い知ることになるのは、イエス様が実際に十字架にかけられる日の騒動によってでした。
弟子たちはその日まで気がついていませんでしたが、イエス様が前もって語られる言葉には心がこもっていました。ヨハネ福音書の個所は、イエス様が弟子たちに語られた長い別れの説教の中の一部です。ここでイエス様は、「父にお願いして別の弁護者を遣わして、永遠にあなた方と一緒にいることにしよう」と言われています。イエス様ご自身も弟子たちをそのまま残して行くことを心配されているのです。ここで言われている弁護者は聖霊です。聖霊は父なる神様がイエス様の名によって遣わされるものです。イエス様は「あなたがたはこの霊を知っている」と言われますが、弟子たちがわかっていたとは思えません。しかし、反対に聖霊は弟子たちのことを知っており、弟子たちの内で働くと言われます。私たちもその姿を知ることができませんので、聖霊はその働きによってその存在を受け止めるしかありません。聖霊の一番の働きは、イエス様と信じる人を一つにするという働きです。たとえイエス様との別れが起こったとしても、一つであり続けるのです。私たちはイエス様との別れどころか、直接会ったことがありませんので、むしろ聖霊によって知らされていると言っていいと思います。私たちは教会に来るようになったことを偶然と考えるでしょうか。自分の意志と決断と考えるでしょうか。普通はそう考えます。しかし、そこには聖霊の神様の働きがあります。私たちがイエス様を信じることが出来るのも、その意味で聖霊がわたしたちに働いているあかしでもあります。パウロがコリントの信徒への手紙12章3節で「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」と言うとおりです。聖霊の働きは自由です。一様ではありません。同じように神様のことを伝えても、そこでイエス様に出会うかどうかは同じではないのです。ある人にはその瞬間、その場で、ある人には違う機会が備えられ違う場所で働くのです。私たちにできることは、その時が与えられるように、与え続けられるように聖霊の神様に祈り続けるのです。
弟子たちはこの時点で、イエス様の十字架のことを理解していませんでした。イエス様ご自身も「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」と言っておられます。弟子たちはイエス様の十字架と復活の後、聖霊によってすべてを悟ることが出来るようになるのです。そこにはイエス様の十字架による別れの意味、そしてイエス様が天に昇られる昇天の意味もまた聖霊によって知らされるのです。
さて、今日の福音書はもう一つのテーマを持っています。それはイエス様を愛する人がイエス様の掟を守っているということです。神様の本質は愛です。それはイエス様の十字架によって私たちに実現しました。私たちはどこまでも神様の愛されています。それはどんなに私たちが神様を無視しようと神様から離れようとも、私たちにその実感がなくても、旧約聖書のヨナが引き戻されたように神様の愛は私たちを追いかけるのです。それは一見、愛のない世界においても、愛に見放されたような厳しく悲惨な現実があっても、そこには神様の愛があるのです。なぜなら、厳しく悲惨な現実を受けるためにイエス様は十字架にかかられたからです。この愛を知ること、そしてこの愛に生きることが、神様が望んでおられることです。普通に考えるならば、愛が満ち溢れる所には悲しみや苦しみがあるはずがないと思いがちです。しかし現実には悲しみや苦しみのない場所などありません。むしろ悲しみや苦しみがあるからこそ、そこで愛が働くのです。力を発揮するのです。
愛はどのように働くのでしょうか。それは人を通して働きます。信仰者を通してだけでしょうか。いいえ、そうではありません。聖霊は確かにイエス様への信仰を促します。しかし、働きはそれだけではありません。愛の働きを実行させるのも聖霊の働きです。なぜなら悲しみや苦しみの場所で愛が働くからです。少しどうどうめぐりになってきましたので、実際の姿を思い浮かべましょう。最初に申しあげたように、新型コロナウィルスの蔓延は、数多くの別れを生みだし、そこには嘆きやうめき、絶望や混乱、苦しみや悲しみ、恐怖を生みだしました。しかし、そこに寄せられる全国からの善意や愛は、多くの人々を慰め、いやし、励まし、勇気づけ、再び生きる力を与えているのです。神様の愛が人を通して確かに伝えられ、働いているのです。もちろんほとんどの人は、それが神様の愛とは思ってもいないでしょうし、愛を実行しているという気持ちもないかもしれません。ただ困っている人を助けたい、励まし合いたいというその一言だけかもしれません。しかし、それこそが神の愛の姿だと思うのです。愛は特別なことではありません。神様は人の心に自然に働かれます。そこにイエス様も一緒におられるのです。信仰という姿を見せないかもしれません。しかしイエス様はそこに確かにおられ、共に働いておられるのです。