2020年4月12日 説教 松岡俊一郎牧師

いのちの終わりはいのちの始まり

マタイによる福音書 28: 1 – 10

イースターおめでとうございます。復活の主のいのちがすべての人々を守られますように。新型コロナウィルス感染症の蔓延が止まりません。この感染拡大防止のために今年は残念ながらイースターを礼拝堂で守ることが出来ません。私がこの数週間に感じるのは、イエス様の十字架と復活を覚えること、それも教会の礼拝という交わりの場で覚えることがどれほど大きな力であるかという事です。受難週と復活祭を皆さんと一緒に迎えられないことは想像以上に、私を不安にさせているように思います。しかしこのような時だからこそ、私たちは命の主に信頼し、恐れと不安に勝利し、平安と希望を勝ち取りたいと思います。

日本基督教団の讃美歌21 – 575番に「球根の中には」という讃美歌があります。メロディーも素敵ですが、歌詞がイースターにとてもふさわしいものです。こういう歌詞です。(Youtubeでも聞くことが出来ます)特に、3番の歌詞には励まされます。

1 球根の中には 花が秘められ、
さなぎの中から いのちはばたく。
寒い冬の中 春はめざめる。
その日、その時をただ神が知る。
2 沈黙はやがて 歌に変えられ、
深い闇の中 夜明け近づく。
過ぎ去った時が 未来を拓く。
その日、その時をただ神が知る。
3 いのちの終わりは いのちの始め。
おそれは信仰に、死は復活に、
ついに変えられる 永遠の朝。
その日、その時をただ神が知る。

私たちは外出自粛要請によって行動が制限され、時には他者と接することに疑心暗鬼になり、交わりが絶たれてしまっています。病気の感染を防ぐためにやむを得ないとしても、人との距離を2メートル保ちましょうというSocial distanceが推奨され、物理的な2メートル以上に私たちの心の結びつきは離れつつあります。世界の感染者が170万人を超え、死者も10万人を超えました。感染の不安だけでなく、死の恐れが私達を脅かします。まさに16世紀のヨーロッパを襲ったペストの恐怖が現代によみがえります。このような時に、聖書は主の復活を私たちに告げ知らせるのです。

イエス様の復活の証言は様々です。ヨハネ福音書の20章の最後には「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない」、21章25節には「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を納めきれないであろう」と言っています。同じ復活証言でも、福音書によって微妙な違いがあります。今日の日課であるヨハネ福音書では、復活の出来事に出会ったのは、マグダラのマリア一人でした。他の福音書では複数の女性が、墓が空になっていることを目撃し、天使に出会います。マリアはすぐに一番弟子のペトロと「イエスが愛しておられたもう一人の弟子」の二人に伝え、二人の弟子が墓を確かめに来ています。どちらが先についたかについてこだわっているのは面白いですが、最初にペトロが中をのぞいたとしているのは、初代教会においてのペトロの権威にかかわることだったのでしょう。そこでは、彼らは「見て、信じた」と書かれています。ヨハネの福音書の記者は「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかった」と言っています。復活は、これまでイエス様の数々の奇跡を目撃し、ラザロの復活を目撃した弟子たちにとっても理解できないことだったのです。

なぜでしょうか。なぜ理解できないのでしょうか。私たちが信じることが出来るのは確認できる、確かめて得られる答えだけです。続く来週の日課の、復活の主と弟子やトマスとのやり取りでも、イエス様が十字架にかけられた時のくぎ打たれた手、槍で刺されたわき腹を確かめるかどうかが話題となっています。人は確かめないと信じられません。死んだ者が復活するなど確かめようがないのです。確かめようがないというよりも、ありえないと否定するのです。つまり普通では、復活は私たちの理解を超えたもの、受け入れがたいものなのです。

もともと神様は確かめられないお方です。人の認識の対象ではありません。もし人の認識の対象であるとするならば、神様を私たちの頭の中に閉じ込めることになります。人が確認できるものは人の領域です。復活は神の領域の出来事です。復活は神様の出来事ですから復活も確かめられないのです。むしろ確かめるものではなく、信じるものなのです。もし、今日の弟子たちのように復活が見て信じるものならば、もはやそれは過去の出来事であり、私たちには直接関係がなくなります。今の私たちは確かめようがないからです。今日の弟子たちは空の墓を確認しました。そこでは彼らはまだ復活を信じる信仰に至っていないのです。

次に、マグダラのマリアと復活の主の出会いについて書かれています。マリアは泣いています。イエス様の遺体がなくなったからです。マリアもまたイエス様の亡骸に頼っていたのです。イエス様が死なれたことは受け止めたかもしれません。しかし目に見える亡骸を心のよりどころとしていたのです。普通は大きな石で塞がれていて見ることは出来ませんでしたが、石の向こうにあることを信じてそれをよりどころとしていたのです。私たちの亡くなった方や遺骨、お墓への思いと同じです。ところが二人の弟子によって墓が空であることが確認されました。マリアはよりどころを完全に失ったのです。そんなマリアに復活の主は声をかけられます。復活の主がどんなお姿だったのかはわかりません。「園丁だと思った」と書かれていますから、以前の姿とは違ったのかもしれません。「振り向いて気づいた」ので、見ていなかったのかもしれません。しかし、マリアは声をかけられて気づくのです。私は、これは耳にする声ではなく心に響く声だったのではないかと思います。マリアの不安、恐れ、孤独に響く声です。マグダラのマリアは、ご存知のように人々から差別され続けた人生を歩んで来ました。人に対する恐れ、不信をイエス様との出会いによって癒され、弟子たちとの交わりによって支えられてきたのです。十字架の直後は、肝心のイエス様はいらっしゃらない、弟子たちはちりじりでした。今日の私たちに似ています。みんなが恐れと不安で、支え合う力もなかったと思います。まさに飼い主のない羊のようになっていたでしょう。しかしイエス様の、再び飼い主の声が散らされた羊たちを集めるのです。そこで伝えられたことは、イエス様が天に昇られることでした。それはまさに確かめることのできない存在となられることが伝えられるのです。そしてそれは人間の限られた時、場所を超えた存在、永遠の存在、どんな時代でもどんな場所でも信じられる存在となられるのです。

復活を信じることは、神様の力を知ることです。人は死に打ち勝つことはできません。そのために死に対して言い知れぬ不安と恐れを抱きます。しかし、復活は死に対する勝利の出来事です。人が勝つことが出来なかった死に神は打ち勝ち、死を超えたいのちを与えられるのです。これが永遠のいのちであり、救いです。救いは人の力、人の領域ではなし得ないこと。神の領域、神の力によっておこることです。この力を信じることによって、私たちは差し迫る不安と恐怖、死に打ち勝つことが出来るのです。