2020年4月5日 説教 松岡俊一郎牧師

民衆の声と神様の御心

マタイによる福音書 27: 11 – 54
フィリピの信徒への手紙 2: 5 – 11

イエス様はユダヤ教の指導者たちに捕らえられ、ローマの総督ピラトの前に突き出されました。そこでピラトは尋問します。「お前がユダヤ人の王なのか」、イエス様は「それは、あなたが言っていることです」とお答えになりました。この問答は、ユダヤ人の最高法院でのやり取りでも交わされました。以前用いていた口語訳聖書では「その通りである」と訳されていました。前者は否定、後者は肯定ですので全く逆です。細かい議論は省きますが、「あなたが言っていることです」と訳する方がイエス様の意思を反映しているように思います。イエス様はユダヤ人の王として人々の上に立つのではなく、仕えることによって救いを実現しようとされているからです。

今日の日曜日は、「枝の主日」でもあります。イエス様が十字架にかかるためにエルサレムに入場された時、人々が棕櫚の葉を振りかざして歓迎したのです。
「過ぎ越しの祭り」は、ユダヤ民族が神によって選ばれ、捕らわれの民となっていたエジプトにおいて神の裁きを過ぎ越し解放された、いわゆる出エジプトの出来事を覚えるユダヤの最大のお祭りでした。エルサレムには地方からもたくさんの巡礼者が集まり、神殿とそのまわりは大変な人でにぎわっていたと思われます。そんな時、イエス様もエルサレムに入ろうとされています。しかし、それはただの神殿参拝ではありません。ご自分が十字架にかかり殺されるということを分かった上での覚悟のエルサレム入城でした。
一行はエルサレムのすぐわき、2、3キロ離れた所にある村、ベトファゲとベタニアに近づきました。この村はオリーブ山のふもとにあたります。このオリーブ山は、ゼカリヤ14: 4に、闘いの日に主が立たれると言われていた場所でもありますので、イエス様がここを通られたことも意味のあることでした。イエス様は二人の弟子を遣いに出され、まだ誰も乗ったことのない子ロバを連れてくるように言われます。そして、だれかが「なぜ、そんな事をするのか」と尋ねたら「主が、お入用なのです」と答えるように言われます。弟子達が子ロバを連れに行くと、すべてがイエス様が言われたとおりになり、子ロバを連れてくることができました。そしてイエス様は、その子ロバに乗ってエルサレムに入って行かれます。エルサレムの町の城壁を入られると、民衆が葉のついた木の枝や服を地面に敷いて迎え、「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。われらの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高き所にホサナ。」と叫びながらついて行ったのです。ホサナというのは「お救いください」という意味で、この旧約聖書の引用は詩篇118編の25節の引用と言われます。枝や服を道に敷くことは、王に対する服従のしるしでした。これらイエス様のエルサレム入城の出来事は、今日の旧約聖書の日課であるゼカリヤ書9: 9以下の成就であることを示していることにほかなりません。つまり、救い主が子ロバに乗ってやってくる。王としてやってくる。そして戦いがなくなり平和が訪れのです。それもゼカリヤの示すメシアは高ぶりを拒否し、力を拒否するのです。
それではなぜ「子ロバ」なのでしょうか。まだ誰も乗ったことのないロバの子、それはどれほどの力があるかもわかりません。ただ頼りなさだけが心配されるのです。ここに救い主が、私たちの思いや常識、価値観を超えて、一見弱いと思えるような姿を取り、またそのような仕方で働かれるということを示しています。救い主が、力の象徴であり、凱旋する武将が乗る軍馬ではなく、ロバの子に乗ってくること、それは力による救いの否定に他なりませんでした。
使徒書の日課は「キリスト賛歌」と呼ばれているところです。パウロは言います。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」キリストが人と同じになられます。弱さと欠点と罪深さにまみれた私たちと同じになって、それも十字架の道を歩まれる。そのへりくだった姿のなかに、神様の深いみ旨があるのです。十字架は犯罪人の処刑道具です。ユダヤ人からは異邦人の処刑方法として忌み嫌われるものでもありました。神様は徹底的に人に侮られ、嫌われる姿の中に救いを実現されようとされます。強い力で救いを実現されるのではなく、弱い姿を取り、弱さの極みとしての十字架の死によって救いを実現されるのです。この徹底した小ささや弱さへのこだわり、それはみせかけの謙遜や卑下とはことなり、神様の真理が込められています。

イエス様はエルサレムの神殿の境内に入られると、あたりを見回されます。ここにも王としての姿が現れていると言われます。イエス様は、夕暮れになったので、ここ数日の滞在の拠点とされていたベタニアに帰って行かれました。翌日になると、宮清めの事件が起こるのですが、今日のところは様子を見られただけでした。
それにしても、イエス様はどのような気持ちでおられたでしょうか。弟子達は大都会、それも過ぎ越しの祭りという大きな祭に来たということで案外浮かれていたかもしれません。あるいはイエス様が繰り返し言われた受難予告が気になっていたかもしれません。

ホサナと叫んだ民衆はどうだったでしょうか。民衆の中には期待がありました。イスラエルはローマの圧政に苦しんでいました。それは度重なる諸外国の侵略と支配の中で、解放を待ち望むことが民族の体質となっていたのかもしれません。そんな中に、イエス様の他とは異なる権威ある言葉、不思議な奇跡の数々によって、人々は革命的な解放者としての期待を抱いたのです。過ぎ越しの祭りはユダヤ人のアイデンティティを高揚させる祭りです。イエス様のエルサレム入城を大歓迎したのは、ユダヤ人の解放のリーダーとしての期待が盛り上がった結果でした。しかし、その期待はやがて失望へと変わります。イエス様の救いは民衆が期待するようなものではなく、徹底したへりくだりと弱い者に寄り添うという人々が期待する力とは真逆の神様の愛によるものだったからです。失望は怒りへと変わり、歓声も「十字架につけろ」という罵声に変わるのです。しかし、民衆の声は変わっても、神様の救いは変わりません。イエス様の十字架の歩みが進むように着実に救いも完成します。