2020年3月29日 説教 松岡俊一郎牧師

復活のいのちを表す

ヨハネによる福音書 11: 1 – 45

新型コロナウィルス感染症の拡大がおさまりません。それどころかアメリカやヨーロッパでは感染拡大のスピードが速く、医療崩壊が起き、死者の数が深刻な事態になっています。まさに人類の危機と言ってよい状態です。一方、私たちの国では感染のスピードが遅いせいか、あまり実感がありませんでした。しかしついに昨日と今日、東京においても外出自粛の要請が出ました。「首都封鎖」という事もささやかれ始めました。私は大岡山教会の役員の皆さんと相談し、本日を含め二回の主日礼拝を休止する決断をしました。ウィークデイの集会を休むこともまれなことでしたが、主日礼拝を休むことは、戦争中を除いて大岡山教会始まって以来のことだったのではないでしょうか。まして教会にとってとても大切な受難週です。この決断の力点は、議長談話にあるように、私たちの教会は「いのちを守る」教会だということです。それは自分が感染しないようにするだけでなく、自分が感染源となって人の命を脅かさないためです。正直言うと、私たちの周りではまだその深刻さはありません。しかし、楽観的だった諸外国では一気に深刻な状況になっていますので、私達も他人ごとと考えてはいけないと思います。命は神様からいただいたかけがえのないものです。軽んじてはならないのです。確かに、キリスト者にとっては、この世の命は絶対ではありません。神様との関係に基づく永遠の命が大切です。しかしそれは他者の命を軽んじていいという事ではないのです。どんな場合でも、この世の命を大切にしたうえで永遠の命を語らなければならないからです。

イエス様が親しくしておられた姉妹マリアとマルタにラザロという兄弟がいました。イエス様はこのラザロをも深く愛しておられました。ある時このラザロが重い病気になり、姉妹たちは人をやってイエス様に急いで来ていただくようにお願いします。イエス様の力ならばラザロも癒されると信じていたからです。ところが不思議なことにイエス様はすぐに駆けつけることなく、二日間も同じところに滞在され、いっこうに行こうとされませんでした。二日ののち、イエス様は「友が眠っている。おこしに行こう」と言われラザロのところに向かわれます。イエス様はその時点ですでにラザロは死んでおり、「おこしに行く」とは復活させるおつもりだったのです。弟子たちはそんなことは分かりません。「眠っているのであれば、助かるでしょう」と答えます。これに対して、イエス様は「ラザロは死んだのだ」と言われます。そしてまるでイエス様はラザロが死ぬことを待っておられたかのような発言をされます。「わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなた方が信じるようになるためである。」と言われているからです。

イエス様がベタニヤに着かれた時には、すでに最初の連絡から四日が経っており、ラザロは墓に葬られていました。マルタはイエス様を迎えに出て、「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」と悔しがりました。そしてそれでも主に対する信仰にゆるぎないことを告白します。するとイエス様は「あなたの兄弟は復活する」と言われました。マルタも「終わりの日の復活の時に復活すること存じております」と答えました。すると、イエス様は「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれでも、決して死ぬことはない」と言われ、これを信じるかとお確かめになったのです。

マルタは急いで家に帰りマリアにイエス様が来られたことを知らせます。なぜかイエス様はまだ村の中に入ろうとはされません。そこにマリアが走ってやってきました。そしてマルタと同じように「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」と涙を流し残念がりました。イエス様はこのマリアの嘆き、人々の悲しみの様子に心動かされて、ラザロを葬った場所に案内するように求められます。洞穴状の墓は大きな石でふさがれていました。イエス様はそれを取り除くように命じられます。そこでマルタは「すでに四日もたっていますから、もうにおいます」というと、「もし信じるなら、神の栄光が見られると言っておいたではないか」と言い、祈り、「ラザロ、出てきなさい」と大声で叫ばれました。するとラザロは当時死んだ者がそうされていたように、手や足に布を巻かれたままで出てきたのです。このラザロの復活の話は、ユダヤ人の間で大騒動になり、イエス様を殺す計画が具体的に進行し始めるのです。

さて、この中でイエス様は2回「憤りを覚えた」とされています。新共同訳聖書では「心に憤りを覚えて」とあります。ここでの憤りとは怒りではないと思います。「心を激しく動かされて」と読んではどうでしょうか。死は人からすべてを奪い取ります。それは本人だけからだけでなく、家族や親しい者からも奪い、その人の存在と人生をあたかもなかったかのようにしてしまい、人を深い悲しみと喪失感に陥れます。このような死に対してイエス様の心は激しく動かされたのです。そして死に真正面から対決されます。ラザロを復活させるのです。死は人にとって絶対的なものです。死とそれに伴う出来事は、私たちからすべての希望と可能性を奪う最強のものです。だからこそ死は私たちにとってタブーであり、死についての話題は避けてしまうのです。しかしイエス様は復活という仕方で死と対決し死に勝利されるのです。そしてそのような復活の力をもったお方が「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」といわれるのです。私たちにとって生と死の狭間が全てです。だからこそ一分一秒でも長く生きたい、生かしたいと願っています。しかし、神様にとって人の存在は死に制限された一時ではないのです。生と死を超えて生きる存在である永遠の命を得させるために神様は私たちのもとにイエス様を送られたのです。その結果、信仰によって私たちも死を絶対的なものとは考えず、死を超えて神様のもとで生きることが出来ると信じることが出来るのです。イエス様は復活したラザロから包帯を説くように命じられます。死んだ人が包帯を巻いた姿で人々の前に現れる姿は驚愕ですが、それは死によってもたらされた様々な縛りと限界をイエス様ご自身が解き放って下さったことをあらわしています。復活に生きるものは死の姿から解放されるのです。

もう一つの憤りは、人々の不信仰と弱さに寄り添う憤りです。死の前での悲しみと絶望は、死に対する敗北の姿でもあります。愛する人を失った寂しさによる悲しみだけではありません。あくまでも絶望という死に対する無力な私たちの姿があるのです。しかしイエス様の死への勝利を確信するところでは、信じる者も死に勝利することが出来るはずです。復活は死への勝利です。私たちも死がすべての終わりではなく、神のご支配と永遠の御国があるところには私たちの希望もあるのです。しかしラザロの死を取り囲む人はその確信に立つことが出来ませんでした。そのような弱さと悲しみにイエス様は寄り添われます。そして心を激しく揺さぶられるのです。それはイエス様自らその痛みを負われるのです。私たちも家族や友人の悲しみに出会ったとき、そこに寄り添い心を痛めます。しかし私たちの共感には限界があります。長く続かないのです。私たちは何度も災害や戦争、事件を経験し、命を失い、脅かされて来ました。そのつど、命の大切さを感じてきました。しかし、それらの経験を私たちは忘れるのです。私たちは命に対して、痛みに対してどこまでも鈍感なのです。

しかし十字架の痛みを負われたイエス様の心は私たちの心のように鈍感ではありません。どこまでも痛みに寄り添い、痛みを引き受け、私たちを命への導いてくださるのです。私たちはキリストのご受難を覚える時にあります。イエス様の十字架の死は、私たちを命と希望に導きます。そしてそれは神様の栄光を表すことにほかなりません。