2020年3月22日 説教要旨 関口昌弘氏 (信徒)

見えるものと見えないもの

ヨハネによる福音書 9: 1 – 41

本日のテキストは、生まれつき目の見えない人の癒しを通して、イエスさまとはどんな人か、罪とは何か、わたしたちの生き方はどうあるべきはなどについて学びたいと思います。

伝統的には、罪の結果として禍いや身体的な障害が生じると考えられていました。本日のテキストでは、罪は因果応報ではないとイエスさまは述べられています。本人の罪でも両親の罪でもないと言われるのです。それは、神さまの業がこの人を通して現れると書かれています。
他の福音書では、「あなたの信仰があなたを救った」書かれている箇所が多いと思いますが、ここでは、目の見えなかった人が癒されて喜びにあふれています。人々は、「その人はどこにいるのか」と問われても「知りません」と答えています。この人の信仰など全く問題にされていません。まさしく一方的な神さまの業が現れているのです。

13節からは、ファリサイ派の人々が登場します。彼らは、癒しの現実より「その人」が、安息日を守らない罪人として糾弾します。盲人であった人は、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことが出来るだろうか」「あの方は預言者です」公言します。 ファリサイ派の人々やユダヤ人の長老などは「イエスをメシアであると公言する者がいれば、会堂から追放する」と決めていたのです。更に追及が続きますが、癒された人も主張します「ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」と。

35節からは、イエスさまが登場します。
会堂から追放された癒された盲人がイエスさまと再会します。彼は、イエスさまのことを知りませんでした。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが」。 イエスさまは「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのがその人だ。」 彼は「主よ、信じます」と言ってひざまづいた。 彼は、イエスさまを見たのです、救い主であるイエスさまが見えたのです。
しかし、ファリサイ派の人々はイエスさまとお会いしても「我々も見えないということか」と言います。
イエスさまは、見えなかったのであれば、罪はなかったであろうと言われます。しかし「今、見える」と言い張ることで罪は消えない。

癒された盲人は、物理的に見えることで驚き喜ぶにあふれている。そして見えているものはイエスさま・神さまです。 ファリサイ派の人々は、物理的には見えてはいるが、イエスさまが見えていない,見えているものは律法だけです。

ところで、私たちは日々の生活の中で、何が見えているのでしょうか。 ファリサイ派の人々と同じでしょうか。 それとも癒された盲人のように、イエスさまがはっきりと見えているのでしょうか。