2020年3月15日 説教要旨 松岡俊一郎牧師

渇くことのないみ言葉の泉

ヨハネによる福音書 4: 5 – 42

新型コロナウィルの蔓延がおさまりません。中国でおさまりかけたと思ったらヨーロッパやアメリカで爆発的な流行が起こり始めました。この一か月ほどトイレットペーパーが消え、マスクや消毒液も全く手に入りません。不安感は、食べ物にも及んでカップラーメンやどういうわけか納豆が手に入りにくくなっています。学校の一斉休校によって、生活や仕事に大きく影響していますし、教会活動も制限させられています。経済的には株価が大暴落して円高が進んでいます。リーマンショック以上の暴落という事で、「恐慌」という言葉さえも出てきました。私たちの心にも影響が表れ、行き過ぎた自粛ムードが不安感をあおり「コロナ鬱」という事が言われ始めました。まさに命と生活が脅かされる事態です。

イエス様がサマリア地方を旅しておられました。ちょうどお昼頃、疲れて井戸のそばで休んでおられました。そこに一人の女の人が来たので、水をくれるように頼まれました。すると女は「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」、さらに「あなたは水を汲む道具もお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその水をお入れになるのですか。」と答えました。するとイエス様はさらに言われます。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」この言葉に女の人は驚きました。そんな水があるのならぜひ欲しいと思ったのです。ところがイエス様が言われたことは、ただの水汲みのことではありませんでした。イエス様が言われたことは「生きた水」のことです。心の傷をいやし、渇きを潤し、死んだような心に命を与える命の水のことでした。イエス様がこの女の中に見られた傷と心の渇きとは、どんなことでしょうか。彼女は孤独さゆえに男を求め、それゆえに孤独であったのです。この孤独感、自分ではどうしようもない人生を、彼女の存在そのものの渇きをイエス様は「渇いている」と言われたのです。この女の後ろめたい人生、どうしようもないやるせなさ、さびしさ、孤独感をイエス様はしっかりと受け止めておられました。そしてイエス様は愛によってこの人の渇きを癒されるのです。

人はいろいろなものでこの心の渇きを感じています。満たされない、やるせない思い、無味乾燥な毎日、心細さや孤独感、不安感など。それは人によって違うでしょう。しかし、一生懸命、誤魔化そう紛らわそうとしています。

人の深い渇きは、一時しのぎでは癒されません。深い渇きを癒してくれるのは、イエス様の愛だけです。イエス様もまた、本当の辛さ、寂しさを知っておられ、人の寂しさの中に入ってくださるのです。イエス様の十字架によって示された真実の愛こそが悲しみ、苦悩、孤独を埋め、癒すことが出来るのです。

私たち現代人が持つ渇きは、神様が与えてくださる真の命の水なしには癒えることがありません。キリストという真の水をいただき、それを互いに分かち合うまで、私たちの命の根源的な渇きは癒されないのです。しかしその命の水は私たちに与えられています。私たちは今、世界的な不安と恐れの中にあります。日常が遮断されるという事態は私達を不安と恐怖感に陥れ、一方では苛立ちとなって人々の心がすさんでいます。今の私たちの渇きの状態です。こんな時だからこそ、愛と慈しみによって私たちを潤してくださる主イエスに信頼すべき時であり、信仰を確認する時でもあります。このようなかつてないような経験の中で私たちは祈り合い支え合いたいと思うのです。