わかりのわるいペテロ
マタイによる福音書 17: 1 – 9
イエスはペテロらを連れて山に登り、姿を変えます。服は真っ白。エリヤ、モーセと三人で語り合っています。ペテロは興奮して、三人に幕屋を立てましょう、と叫びます。すると雲に包まれ、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と声がします。気がつくと、ペテロの前にはイエスがいるだけでした。エリヤは生きたまま天に上げられ、人びとを救いにまたやって来ると信じられました。モーセも、生きて天に上げられたと信じられました。それなら、姿の変わったイエスと話しあっても不思議はありません。
ペテロは、三人の幕屋を建てましょう、と言いました。エリヤ、モーセ、イエスを同列に考えています。イエスはキリスト・救い主で、神の子のはずですから、これはとんちんかんです。ルカの福音書は、「自分でも何を言っているのか分からなかったのだ」と、ペテロをフォローしています。
雲が晴れると、イエスが元の姿でひとりで立っていました。そして言います、「人の子が死者のなかから復活するまで、このことを誰にも話してはならない。」なぜ話してはならないのでしょうか。それは、時がまだ来ていなくて、人びとが誤解するからです。現にペテロもイエスの本当の姿を見たのに、とんちんかんなことを考えてしまいました。
イエスは自分がなにものか、わかっています。やがて苦難を受け、復活するのです。いっぽうペテロは、何が起こっているのか理解できず、おろおろするばかりです。ペテロとイエスのあいだに、大きなギャップがあることがわかります。このギャップを、イエスはどうみているでしょう。
イエスは、ペテロを叱りません。見捨てません。ペテロを導くために元の姿で戻ってきました。イエスは、わかりのわるいペテロを、忍耐されました。そして、弟子たちのリーダーとして用い続けました。ペテロがこれから、大きな働きをする機会を与えました。
ペテロはこの出来事のあとも、あいかわらずわかりがわるく、イエスが十字架につけられると逃げ出し、イエスを「知らない」と三度も言いました。わかりのわるいペテロは、わかりのわるい私たちと同様に、イエスに導かれて、信仰の道を歩みました。
イエスの姿が変わったとき、イエスはほんとうの姿を示しました。わかりのわるいペテロは、すぐには理解できませんでした。さて、聖書には、イエスのほんとうの姿が明かされています。わかりのわるい私たちは、すぐにはそれを理解できません。それでもイエスは、忍耐されます。わかりのわるいままでも、イエスの導きに従っていく。それを、イエスは望んでおられるのです。