戒めの真意
マタイによる福音書 5: 21 – 37
律法は主にモーセがホレブ山で神様から直接受けた二枚の板に書かれた戒めです。ユダヤ教は創世記から申命記までを律法とし、それに加えて後代の注解(タルムード)と呼ばれる、言い伝え(ミシュナー)とその注解(ゲマラ)までも律法として守っていました。私達が律法と聞くと、イエス様が律法を形式的に守る律法主義を厳しく批判しておられますので、いつの間にか律法までもが悪いものだと感じてしまっています。
しかし、イエス様は「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない、廃止するためではなく、完成するためである。」と言われています。当時イエス様の周りでは二つの動きがありました。一つには律法学者、ファリサイ派など律法を厳しく守ろうとする人たちです。彼らの律法に対する姿勢は、律法を字句通りに厳格に守りさえすればよいと考えたのです。そういう人々にとっては、イエス様は律法以外のいろいろなことを言われるので、まるで律法を破壊しようとしていると見えたのです。もう一つのグループは、イエス様は律法から自由になったのだから、律法など守らなくてもいいと考えるようになった人々の存在です。これらの二つの考えの誤解を解くために「廃止するためではなく、完成するためである。」と言われるのです。
律法を厳格に守るようにする人々は、モーセの律法の十戒にある「殺してはならない」に加えて、「人は殺した者は裁きを受ける」と言います。それは裁きを受けるから殺すなとも読めます。つまり自分のためです。しかし、イエス様は他者を「兄弟」と呼ばれています。マタイ18章では、「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。いう事を聞き入れたなら、兄弟を得たことになる」と言われています。「兄弟を得る」、これこそがイエス様が大切に考えておられることであり、律法が言おうとしていることではないかと思います。ですから「殺すな」との戒めも、兄弟のいのちを守ることが根底にあるのです。自分のいのちはもちろん、他者のいのちに対する敬意を持つこと、大切にすること、これが人間を造られた神様の創造の御業に対する取るべき姿勢なのです。
次は姦淫してはならないという戒めについてです。姦淫するなというだけではなく「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、すでに心の中でその女を犯したのです」と言われます。その心のありように目を向けられます。そこには女性を性の対象としてだけ、欲望の対象物としてしか見ない姿があります。ユダヤ社会は男性中心でした。妻を夫の所有物として考えていく傾向があります。しかしイエス様は、神様が造られた女性の存在と人格を守るためにこう言われているのです。
続く「離縁してはならない」ということも同様です。当時の離縁は、夫を中心に考えられていました。イエス様はここでは結婚の大切さに目を向けておられます。結婚は夫、妻、両者の合意と約束に対して神様の祝福が与えられるものです。それを一方的に片方によって破棄されるものではないのです。どんな場合にもどちらかが大切にされるのでなく、互いに一人一人が大切にされることをイエス様は求めておられるのです。
最後は誓いについてです。そもそも誓いが必要なのは、完全な信用、信頼関係がないからです。全き信頼関係があるならば、誓いなど必要がないのです。イエス様は誓いが必要でないような全き関係を神様と結びなさいと言われているのです。そこで必要なことは誓いではなく、神様を信じ従う信仰です。