2020年2月9日 説教要旨 松岡俊一郎牧師

励ましの言葉

マタイによる福音書 5: 13 – 20

ここ数年自然災害が頻発しています。地震や台風の被害、オーストラリアの火災、新型コロナウィルス肺炎の蔓延、自然の猛威の前で私たちはまったく無力です。できることと言っても、ほんのわずかなことでしかありません。恐れや不安、いらだちやむなしさ、無力さを感じてしまいますし、さらに何もできない、何もしようとしない自分にも腹立たしさや情けなさを感じてしまいます。

新約聖書の時代、イエス様を信じる人々は多くはありませんでした。時には大勢の人が詰めかけて権力者たちを驚かせましたが、実際には貧しい庶民の集まりでしかありませんでした。「山上の説教」の時には、確かに大勢の人が集まってきたかもしれません。しかし、場所はすべての中心であったエルサレムから遠く離れた辺境のガリラヤの丘の上です。ローマ帝国は地中海全体で絶大な力を誇っており、ユダヤ社会の中では宗教的指導者たちが大きな権力をふるっていました。イエス様のもとに集まったガリラヤの人々とは、本当に小さな存在、無名の存在でしかなかったのです。

しかしイエス様は、そのような貧しい人々、小さく弱い人々、無力な人々に向かって今日のみことばを語っておられます。

「あなたがたは地の塩である。」イエス様は、貧しく小さな民衆を前にして、あなたがたはこの社会において塩の役目を果たすのであると言われているのです。腐敗した社会を清め、生きる力を失った人々に生きる力を与えると言われるのです。

「あなたがたは世の光である」とも言われます。彼らにどれだけその力があったでしょうか。むしろ彼らこそがその光を求めていたのではないでしょうか。だからこそイエス様のもとに集まってきたのではなかったでしょうか。

最後に言われている言葉、「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」という言葉を聞くと、イエス様のもとに集まった民衆も、このみ言葉を聞く私たちも、とてもそのような立派な行い、働きはできないと言いたくなってしまいます。

これらの言葉は、私たちにそうなりなさいと言われているのではありません。すでにイエス様を信じ、神様を信じ従う者はそのような者であると言われているのです。なぜならばその根拠が私達、民衆にあるのではなく、神様が私達を愛しておられるから、愛される神様に根拠があるのです。よく例えられることですが、月は自ら光を発していません。太陽の光を受けて、明るく輝いています。そして現代の私たちは、月面の太陽の当たらない部分は暗黒の世界であり、ゴロゴロした岩だらけの世界であることを知っています。しかし、そのような月であっても、自らが光を発しなくても、照らす太陽の光が強ければ強いほど、周りが暗ければ暗いほど、明るく輝くのです。

私たちは自分たちには、先に言われたような、私たちの行いを見て人々が天の父をあがめるようになる力などないことを知っています。神様は無から有を作り出されるお方です。闇を切り裂き、すべてを照らす光です。そのことを私たちは忘れてはいないでしょうか。その光である神様が、少しの光も生み出すことができない私たちに光を与え、私たちを輝かせてくださるのです。

神様は私たちを輝きの反射板として用いられます。たとえ私たちが曇ったままの反射板であったとしても、神様ご自身が強い光で輝きを与えてくださいます。神様は具体的な光としてイエス様を与えてくださいました。イエス様は神様の光として、人々に仕え、自らの命をささげ、暗闇にいる人々を照らし、世の光となられました。私たちはその光に照らされています。