教会はどこにあるのか
マタイによる福音書 18: 20
大岡山教会は、今年4月から礼拝堂の耐震補強工事と集会室の大型改装工事のために、4か月半の間礼拝堂と集会室を使うことが出来ません。幸いなことに、礼拝は幼稚園の保育室を借りて続けることが出来ますが、いつもは当たり前と思っていた礼拝と活動の場所を一時的であれ失う事になります。そこには様々な不安があります。しかし、これは教会とは何かを問い直すチャンスでもあります。
礼拝堂は祈りの家であり、会員と求道者の皆さんの信仰が集まる聖なる空間です。とても大切で愛すべき場所です。しかし、教会はイエス様のみ名のもとに、み言葉が与えられ、祈りと賛美が捧げられ、信仰の交わりが実現、伝道する時に教会であり続けるのです。「形あるものは壊れる」と言われます。地震や火災、津波など自然災害によって礼拝堂を失った教会はたくさんあります。世界的に見れば、戦争によって祈りの場が破壊されるケースは珍しくはありません。弟子たちが、エルサレム神殿の勇壮さに感嘆した時、イエス様は「はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」(マタイ24: 2)と神殿崩壊の預言をされました。人の手によって造られた者は、いつかはその役目を終えます。しかし、信仰者たちの信仰は、どんな状況においても希望を失わず、み言葉と祈りを求めることをやめませんでした。主題聖句のように、そこにはイエス・キリストが確かにおられることを確信しているからです。私達がどのような場所で礼拝しようが、そこには確かにイエス・キリストがおられるのです。そしてむしろパウロは「自分の体を神に喜ばれる聖なる聖なるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(ローマ12: 1)というのです。私達が集まるところにイエス様がおられ、教会があるのです。
私達には集まる場所が確かに必要です。信仰はみ言葉による導きと交わり、とりなしの祈りの場所が必要だからです。み言葉による導きがなければ独りよがりになり、聖書を勝手な読み方をしてしまいます。文化や他宗教からの影響も受け行き過ぎた解釈をします。そして信仰をひとりで維持できるかというとそうではありません。信仰は感情的な気持ちに左右されがちです。一時的には燃え上がっても生活や仕事に追われてやがて冷めてしまうことがあります。それを維持し続けることは難しいのです。そしてそのためにも私たちは信仰、人生を他者のとりなしによって支えられる必要があるのです。信仰はそうして温められ育てられるのです。
私たちは礼拝堂と集会室を完全に失うわけではありません。9月にはより強固で安全な礼拝堂、さらに宣教活動の可能性を拡げるための集会室が与えられます。それは大岡山教会の宣教が、より豊かに前進するための大きなステップなのです。幸いに潤沢とはいえないまで、経済的には皆様の努力によって支えられています。さらに恵まれていることは、豊かな人材と成熟した信仰を持った方々がたくさんおられることです。私は工事期間中のこの一時的な期間を大きな飛躍のための熟成期間としたいのです。