2020年1月19日 説教要旨 松岡俊一郎牧師

世を救う神の小羊

ヨハネによる福音書 1: 29 – 42

今日の福音書に出てくる「神の小羊」という言葉はあまりピンとこないかもしれませんが、「アグヌス・デイ」というとわかると思います。バプテスマのヨハネがイエス様を指して言った言葉「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」からとられた言葉です。このアグヌス・デイは、私たちは式文9ページの聖餐式の中で歌っていますが、紀元300年頃から歌い続けられている大変歴史のある祈りの言葉です。礼拝式文の中に入れられたのは7世紀頃と言われています。

この「神の小羊」には四つの意味が考えられます。第一は、今日の旧約聖書の日課にもある人々の罪を負って苦しんで死ぬ「苦難の僕」です。強い者、立派さに価値を置くこの世界の論理に、真っ向から立ち向かう神様の救いの逆説です。第二イザヤが語ったこの苦難の僕の預言を、キリスト教会はイエス様の十字架上で苦しむ姿と重ね合わせ、イエス様の十字架の死をこの苦難の僕の預言の成就と考えています。第二には、出エジプト記にある「過ぎ越しの小羊」のことです。ユダヤ人たちが奴隷となっていたエジプトから逃れる時、神様は家の入口の柱や鴨居のところに、小羊の血を塗りなさい、そうすれば災いが通り過ぎると命じられ、ユダヤ人たちには災いが及ばず救われたのです。過ぎ越しの小羊は、ユダヤ人にとっては自分たちは神様によって選ばれた民であるという自尊心と救いの象徴なのです。第三には、「犠牲の小羊」です。ユダヤ教の礼拝には犠牲の捧げものが欠かせませんでした。その中でも小羊はよく用いられたようです。アブラハムが神様から息子イサクを捧げなさいと命じられた時に、代わりに用いられたのもの羊でした。キリスト教も十字架によって死なれたイエス様を私たちの罪を赦すために犠牲となられた小羊と考えています。第四には、終末の時に現れて世の悪を取り除く「終末的な小羊」です。ヨハネの黙示録にもしばしばイエス・キリストが贖いの小羊、栄光の小羊として登場します。

今日の個所でバプテスマのヨハネは「わたしはこの方を知らなかった」と二回も繰り返していますが、ヨハネはむしろ「わたしの後から一人の人が来られる」と言い、「霊が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である」ことを強調したかったのです。この指摘によって、私達が理解したいのは、イエス様が人として歩まれる人生の中で新しい教えを宣べ、不思議な数々の業を行われたから信じ従うのではなく、神としてこの世に来られ、そのイエス様は聖霊が一つとなっておられたという事です。それがヨハネが指し示している方向です。

バプテスマのヨハネからアンデレへ、アンデレからシモンへ伝えられます。信仰は個人の内心の事柄であると同時に個人にとどまるのではなく伝えられるものなのです。シモン・ペトロの召命については、他の共観福音書と記述が違います。他の福音書では、シモン・ペトロとアンデレはガリラヤ湖畔で網の繕いをしている時に、イエス様に「人間をとる漁師にしてあげよう」と言われて従ったことになっています。しかしヨハネ福音書は、そのエピソードを無視してまで、「福音は伝えられること」を強調したかったのではないでしょうか。