2019年12月22日 説教要旨 松岡俊一郎牧師

神が共におられる証し

イザヤ書 7: 10 – 16
マタイによる福音書 1: 18 – 25

旧約の日課のイザヤの預言の最後に「見よ、おとめが身ごもって、男の子を生み、その名をインマヌエルと呼ぶ」と書かれています。神御自身が遣わされるメシア救い主です。このメシアはダビデ王家から生れると言われていました。だからこそ、福音書記者マタイは、わざわざ福音書本文の冒頭にイエス・キリストの系図を載せて「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」と表題を記し、ヨセフがダビデの家系であることを記します。

今日の福音書の日課の主人公はイエス様の父ヨセフです。ヨセフはイエス様の幼少の時にしかその名前が出てきません。その役割は、イエス様が正真正銘の、正統的なメシアであることを宣言するための布石です。しかし今日はそれ以外に大切な役割を担っています。

母マリアとヨセフは婚約をしていました。二人は一緒になる前に、マリアが聖霊によって身ごもっていることが分かります。ヨセフはこの時点では、その妊娠が聖霊によるものであることを知りませんので、彼にとっては大ごとです。ヨセフは正しい人でした。この正しさは二重の意味での正しさです。まず律法的に正しいという意味です。もうひとつの意味での正しさは、憐れみの心をもっているという意味です。だからこそ、マリアのことが表ざたになることを好まず、つまり死刑を回避するためにも、婚約破棄をひそかに行おうとしたのです。しかし、ヨセフのいずれの正しさをも超える事態が分かります。天使が夢に現れて、マリアの妊娠が聖霊によるものであるので安心してマリアを妻として迎えなさいと伝えたのです。さらに天使は重大なことを伝えます。その子どもにイエスと名付けるように命じるのです。イエスとは「神は救う」という意味です。ヘブライ語読みではヨシュアですから当時としては珍しい名前ではなかったようです。しかし天使はわざわざ「この子は自分の民を罪から救うからである」と付け加えたのです。そしてこのことは、主がイザヤの預言を通して語られたインマヌエル預言の成就となるのです。インマヌエルとは「神は我々と共におられる」という意味です。お気づきの方もあるかと思いますが、イエス様が復活をされ、天に上げられる時、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われました。実はマタイがわざわざ系図をもちだしたり、ヨセフを担ぎ出したりしたのも、イエス様が救い主であり、その救い主は神が共におられるという仕方で救いを実現されたということを伝えたかったからでした。

神が共におられる。これは注目すべき言葉です。それは私たちがあたかも神がいないと思えるような無秩序で悲惨な時代に生きているからです。人と人との結びつきが希薄になり、夫婦・親子・兄妹の間で憎み合いや殺し合いがある、国は人を正しく顧みることをせず、国と国は絶えず利害をめぐって争っている。どの関係をとっても安心できる場所がなくなっている、心を開く相手がいなくなっているのです。激しい戦争、むごたらしい殺戮はこれまでも繰り返されてきたかもしれません。しかし、人間がこれほどまでに孤独を感じる時代はなかったのではないかと思います。孤独が社会を覆っています。高齢と言うだけでなく、人と関係を持てずに人生の終焉を迎えなければならない人が多くいるのです。

このような時代に、インマヌエルという名を持ったお方が私たちのところに来られたのです。このイエス様を私たちの心にお迎えする時、私たちも永遠に神様と共にいるのです。このインマヌエルのイエス様を信じる時、もはや私たちには孤独はありません。このイエス様によって私たちは互いに結びあわされ一つとされているからです。