2019年12月15日 説教要旨 松岡俊一郎牧師

預言の成就としてのクリスマス

イザヤ書 35: 1 – 10
マタイによる福音書 11: 2 – 11

バプテスマのヨハネが、自分の弟子たちをイエス様のところに送り、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、他の方を待たなければなりませんか」と尋ねさせています。この行動は少し不思議です。なぜなら、ヨハネはすでにイエス様が来るべきメシアであることを知っていたはずなのに、ここで改めてその真偽を聞いているのです。

この疑問のヒントは、イエス様の回答にあります。これはイザヤ書35章にある、メシアが現れ、イスラエルに栄光の回復がもたらされた時の姿を言っています。イエス様の姿を見て悟れと言われているように思います。

聖書の時代の人々は、ローマ帝国の支配のもと、ヘロデ王家の圧政、宗教指導者による厳格な律法の強要、そして貧困にあえぎ苦しんでいました。彼らが求めていたメシア像、救い主はその重圧からの解放者であったのです。ヨハネは今、牢につながれています。ヘロデの結婚を批判したかどで捕らえられていたのです。自分は今や殺されるかもしれないという思いの中で、イエス様が真のメシアであるか確かめたかったのかもしれません。しかし、当のイエス様の姿にはそのような強い姿は見られません。解放者どころか、体の不自由な人のところに行って癒し、貧しい人の友となられていました。その姿は一見すると解放者からは程遠い姿だったのです。しかし、イエス様はこの自分の姿こそが、メシアの働きであることを強調されるのです。

私達の暮らしは比較的豊かで安定しているかもしれません。しかしみんながそうではありません。格差社会の中で子どもやひとり親の貧困は深刻です。社会は労働力を求めていますが、多くの労働者に非正規雇用の波が押し寄せ安定した労働環境ではありません。心の中は孤独で自尊心が損なわれ生きる喜びも意欲もなくなっています。災害が頻発し、実際の暮らしが脅かされ仕事が奪われています。私たちの国と時代には終末待望やメシア待望の思想はありませんから、それを望むことはないにしても、実際的には少しでも生活が楽になりたい、健康でありたい、精神的にも救われたいという思いは誰しもが持っているのです。

イエス様が、イザヤの預言を言われる時、それは目に見える事象だけを言っておられるのではありません。教会に来たから、洗礼を受けたから、目が見えない人が見えるようになるとか、足が不自由な人が歩けるようになるとか、重い皮膚病を患っている人が清められ、耳の聞こえない人が聞こえるようになり、死んだ人が生き返るわけではありません。それを完全否定するものではありませんが、現実には、何も変わらないことが多いのです。しかし、大きく変わることがあります。目の前の困難に目を奪われて神様が見えない私たちが、いろいろな情報の騒音に惑わされて神の言葉を聞くことが出来ない私たちが、孤独でだれも一緒に歩んでくれないと思いこんでいる私たちが、イエス様の十字架によって大きく変わるのです。罪から清くされ、孤独と劣等感の中で生きる意欲を失っている時にも、イエス様が私達を肯定してくださり、共に歩んでくださり、喜びをもって福音に生きることが出来るのです。確かに、私達には実際の苦しみと困難さがあります。それらによって心までが打ち砕かれています。しかし、神様の力はこの打ち砕かれた心に再び命を与え、私達に生きる望みを与えてくださるのです。もはや一人で苦しむのではない。神様が共にいてくださるのです。