2019年12月8日 説教要旨 松岡俊一郎牧師

主イエスを指し示す声

イザヤ書 11: 1 – 10
マタイによる福音書 3: 1 – 12

旧約聖書の日課の冒頭には「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで」とあります。エッサイとはダビデ王の父の名です。しかしダビデ自身がもともとは羊飼いであったように父エッサイも身分が低く、ダビデのことを「エッサイの子」というときは、その身分の低さの意味を込めた言い方でした。聖書は、ユダヤの歴史の中で治世を誇ったダビデ王のルーツを隠すことはしません。むしろそこには神様の大きな働きがあることを証言するのです。エッサイの株とは、ダビデ王朝のことです。その王朝はすでに倒れてしまっているのです。しかしそこに芽をだします。それがイエス様です。

聖書の時代、民衆はローマの支配の下で貧困にあえぎ、圧政に苦しめられ厳しい生活を余儀なくされていました。そのような中で民衆の間には、自分たちを解放してくれるメシア、救い主を待ち望む機運が高まっていました。そんな時、ヨルダン川のほとりで、洗礼を授けていたヨハネがいたのです。

集まってくる群衆の中にひときわ目立つ集団がいました。サドカイ派とファリサイ派の人々です。王族と結びついていたサドカイ派の人々、彼らはアブラハム以来の信仰的伝統を自負していました。また律法の専門家として自分たちは他の人々とは違うという高い気位をもっていたファリサイ派の人々。彼らもまた悔い改めを求めていましたし、徹底的な律法主義を貫いていました。彼らも市中でうわさになっている洗礼者ヨハネのところにやって来ました。しかし洗礼者ヨハネは、彼らに向って厳しい言葉を投げかけます。彼らの傲慢な心を打ち砕く言葉です。

なぜヨハネはこれ程までに厳しい言葉を投げかけたのでしょうか。ファリサイ派もサドカイ派も宗教的に厳格なグループでした。しかし彼らにとっての悔い改めの洗礼は、彼らがこれまで持ち続けてきた信仰の伝統と習慣に一つを加えることでしかありませんでした。

ヨハネが求めている悔い改めは、神様の前にあって、反省したり、悔やんだりすることではありません。ましてや悔い改めが神様の前に徳を積み重ねることには、絶対にならないのです。むしろそれは悔い改めどころか、神様の前で自分を誇ることに他なりません。サドカイ派にしても、アブラハム以来の信仰的伝統を神様に誇ったところでまったく意味がないのです。

洗礼者ヨハネのいう悔い改めとはいったい何だったのでしょうか。荒野とはどんなところでしょう。それは街中での通常の考えや理屈、甘えが通用しない場所です。イエス様も悪魔の試みに会われたのは荒野でした。そこは人の心を裸にするところです。裸にした上で、その人がどこに立つか試みられる場所なのです。ヨハネが求める悔い改めは、そのような場所、もはや自分には何も誇ることも頼ることもないようなところで、神様への信仰を問うのです。

私達は今クリスマスを待ち望み日々を過ごしていますが、このクリスマスの物語は、私達の通常の思いを裏切ります。クリスマスは異例中の異例のことばかりです。常識を覆すことばかりです。次々に逆転が起こります。これらの逆転は、出来ない者が成し遂げることが出来るということでもあります。そうです。キリストのために私達が何かをするというのではなく、悔い改めさえまともに出来ない私達のところを目指して救い主が来てくださるのです。道を備えるのも整えるのも、神様がそれをしてくださり、キリストを与えてくださるのです。わたし達はそれを、ただ喜びをもって受け入れるだけでいいのです。ただここに救いがあることを確信しそれに従って生きるだけでいいのです。