神によって生きるいのち
ルカによる福音書 20: 27 – 40
今日の福音書の日課は、サドカイ派の人々がイエス様に質問をしている箇所です。サドカイ派というのは、ユダヤ教のグループの一つで、モーセの律法のみに重きを置いている人たちです。モーセの律法には復活は出てきませんし、彼らは裕福な人、権力のある人達が多かったといいますから、現世に満足していたので、ことさら来世を待ち望む必要がなかったのでしょう。
そこでサドカイ派の人は、モーセの律法、申命記25章5節~10節を下敷きにしたたとえをもってイエス様に質問します。「ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない」。これは家の後継者を残すために定められた律法で、「レビラート婚」と呼ばれているものです。結婚は跡継ぎを残すための一番の目的と考えられていました。そこで彼らは言います。「ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。次男、三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」彼らの考えは、今生きているこの世の生活に根ざしていました。裕福で社会的な地位の高かった人たちが多かったので、それを守ることが大切だったのかもしれません。彼らがここで想定している復活は現世の延長でした。実は、復活を主張していたファリサイ派の人の復活観も、この世の延長としての復活でした。これに対してイエス様の考えておられる復活はそうではありません。復活は終わりの時の復活です。それは現世の延長でもなく、現世への逆戻りでもなく、神様の新しい世界への誕生であり、神様との完全な関係への扉なのです。
復活のイエス様の姿は、私たちの考えや復活のイメージを超えたものです。復活は、存在の様態、姿かたちで捉えられるものではありません。現世の延長ではなく、神様の世界での出来事なのです。そして復活する人は、その神様の出来事に与るのです。つまり私たちが死んで復活した後は、天使に等しい神の子として生きるのです。
当時の人々の考えでは、人が結婚を必要とするのは、死があるからです。死があるからこそ結婚をして子孫を残し、死を乗り越えようと考えたのです。しかし復活した人には、もはや死はありません。その意味で復活した人には結婚の必要がなく、その存在も生前の夫婦関係、親子関係、友人関係の中で生きるのではなく、まったく新しい姿で、天使に等しい存在なのです。天使にあるのは神様との関係だけなのです。
イエス様の考えでは、アブラハムもイサクもヤコブも、死に留まるのではなく復活するのです。ですから、神様も死にとどまる人の神ではなく復活する人の神であり、人を生かす神なのです。
神様は人を生かすために、命の主を私たちに送られました。神様は復活を私たちにも与えられます。私たちは死を終わりとして恐れるのではなく、復活を信じることによって、神様の新しい世界での希望の先取りが許されているのです。それはただイエス・キリストを通して、今を生きるわたしたちにも与えられる希望なのです。そして神様は私たちがこの希望を持つことによって、今を本当に生きたものになるようにしてくださるのです。