2019年11月10日 説教要旨 松岡俊一郎牧師

主が帰ってこられる時

ルカによる福音書 19: 11 – 27

新約聖書の時代はユダヤ人の間でもキリスト者の間でも終末が近いと考えられていました。近いというより、早く来てほしいと願っていたといっていいかもしれません。ローマの支配、ユダヤ人指導者の圧政、ユダヤ教指導者の締め付け、貧しい生活、その困窮の中で人々の心は絶望にさいなまれ、終末の向こうにある新しい世界こそが自分たちを幸せにしてくれると考えていたに違いありません。

今日の福音書は歴史的な史実とたとえが混じり合わされるような形で作られています。区別してみましょう。史実というのは、14節と27節です。ヘロデ大王の息子であるアルケラオスは父の死に際して、父の後継者としての王位を受けるためにローマに行きます。しかし、彼は民衆から非常に嫌われていたために、ユダヤ人たちは55人の人をローマに送りそれを阻止しようとしたのです。結局彼は王位を得ることが出来ず、ほんの短い間、ユダヤとサマリヤ統治を命じられただけでした。

たとえの部分はこうです。ある立派な家柄の人が、遠い国に旅立つことになりました。そこで彼は十人の僕に10ムナのお金を渡し「わたしが帰ってくるまで、これで商売をしなさい」と命じます。1ムナとは100日分の賃金と言われています。帰ってその成果を聞きます。最初の人は、1ムナで10ムナを稼ぎ出し、他の人は布に包んでしまっておきました。その結果、他の人に命じて、その人の1ムナを取り上げ、10ムナ稼いだ人に渡したのです。

ここで言われていることは、どれだけ稼いだか、儲けたかではありません。1ムナを預かり1ムナをそのまま返した人の態度が重要です。主人が僕にお金を預けた気持ちと、この最後の僕の主人に対する気持ちの違いです。主人がお金を託す、商売をするようにと命じることは、僕を信頼してのことでした。ところがこの僕は、「あなたは預けなかったものまで取り立て、蒔かなかったものも刈り取られる厳しい方で恐ろしかった」と答えています。つまり主人の信頼とは裏腹に、僕は主人に対して疑心暗鬼の気持ちをもっていたのです。

言うまでもなく主人と僕の関係は、神様と私たちの関係でもあります。神様はわたしたちに命と生活を与えられています。もちろん具体的には個人差はあります。多様な社会状況の中で裕福な人もいれば、困窮している人もいます。しかし神様はわたしたちへの愛と信頼を持って、それらをわたしたちに託してくださっています。まず私たちはそれに気づかなければなりません。不足や不満を口にする前に、神様の私たちへの愛と信頼に気づく必要があるのです。1ムナも儲けなかった僕は、主人の信頼に気づきませんでした。そこにある愛に気づけば彼の行動は変わったかもしれません。しかし彼はそれに気づかず、恐れだけが彼を支配したのです。恐れは人をこわばらせます。恐れの中では創造的な働きも生まれません。恐れからは神様から託された務め、自由の中で愛し合うという務めにも気づくことはないのです。反対に信頼は人を自由にします。自由はその人が持っている賜物以上のものを生み出します。パウロはガラテヤ書の中で「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召しだされたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」と言っています。

わたしたちは自分が神様を信頼することが出来るか、愛することが出来るかという問いに頭を悩ませます。しかし、信仰はまず神様の信頼に気づくか、神様がどれだけ深い愛をもってわたしたちを愛してくださっているかを知ることが一番大事なことです。