幸いなる人は
マタイによる福音書 5: 1 – 6
今日私たちは宗教改革を覚えて礼拝をしています。100年前、1917年の宗教改革400年の時にも、カトリック教会とプロテスタント教会は激しい対立の中にありました。従って宗教改革400年の祝い方は、いかに互いの教会が間違っていたかを糾弾し、自分たちはいかに正しいかを主張するものでした。しかし、2017年に私たちの日本福音ルーテル教会と日本カトリック司教協議会は長崎の浦上教会で合同の祈りの時を持ったのです。その時のテーマが「平和を実現する人は幸い」というものでした。カトリック教会の第二バチカン公会議以来続けられてきたエキュメニカル対話によって、それまでの分裂を反省し、もはや対立はないと互い確認し、教会は一致して平和のために働くことを呼び掛けたのです。その意味で、2017年以後、宗教改革主日は新しい視点を持ったものになったと言っていいと思います。
さて、今日の福音書の日課は、格言のような言葉が語られ、美しい旋律として響きます。しかしその内容を理解することはそう容易ではありません。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」。なぜ貧しい人が幸いなのでしょうか。これらは「悲しむ人々」「柔和な人々」「義に飢え渇く人々」と続きます。柔和という言葉もたどっていくと、ただ寛容というよりは、抑圧されているという意味を持つ言葉です。義に飢え渇くというのも正しさを求める人、しいては正しい扱い、公正な裁きを受けていない人ということになります。このように見てみると、とても幸いな人たちとは言えない人々をイエス様は、幸いであるといわれているのです。いったいどういうことでしょうか。
私たちにとっての幸いは、まずは家族が健康で平穏な生活が送れること、必要な欲求が満たされることです。最近の災害の多さを考えるならば、安全な暮らしが保障されることでしょう。しかし、イエス様が考えておられた幸いは違います。イエス様が考えておられる幸いは、神様のご支配を受け入れられる人です。私たち人が神様の前で本来あるべき関係にあることが一番幸いなことです。目の前にある満足とは関係がありません。むしろかえってそれらは、神様のご支配を受け入れるということにおいては、邪魔になるといったほうがいいかもしれません。なぜなら、私たちが自分の力に信頼し自信を持ち、満足を感じている時には、神様に目を向ける心、神様の入る余地はないからです。
しかしそのように考えると、ユダヤの一般民衆の願い、私たちの感覚とイエス様の教えはかけ離れているように思われて来ます。もちろんそうではありません。イエス様が私たちの生活に無関心でおられるはずがありません。群衆が飼い主のいない羊のように弱りはてている時、深く憐れられました。さらに「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と言われます。イエス様も人々が平安に生活することを願っておられました。しかし私たちがそのことだけを願って、神様との関係を見失ったときの不安や動揺を恐れておられるのです。人は元気な時には神様の助けを必要としません。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。」と言われる通りです。人は自分の力を頼りとすることが出来ない時、自分に絶望する時、人の力ではどうにもならない時、そのような時にこそ私たちは神様のご支配を受け入れることが出来るのです。使徒パウロが「わたしは弱いときにこそ強い」と言ったのは、自分の無力さ、小ささを知り、自分の中で神様が働いてくださることを知ったからです。自分の力に頼るのではなく、神様のご支配、み力をすべてとすること、それが私たちにとっての「幸い」であり、まことの救いなのです。