2019年9月22日 説教要旨 松岡俊一郎牧師

難解なたとえ

ルカによる福音書 16: 1 – 13

イエス様はエルサレムに向う旅の途中でした。イエス様の前にはエルサレムで待っている十字架の死がありました。十字架の死が予想されていたからこそ、イエス様はあちこちの村や町で神の国の到来と救いについて熱心に話しておられるのです。ところが、人びとの反応はどうでしょう。相変わらず、冷ややかに聞く人、敵対心をもって聞く人、他人事のように聞く人、のんきに聞き流す人、いっこうに理解しようとしない人などがほとんどだったのです。それは弟子たちも同じでした。だからこそ、今日のたとえを弟子たちにも向って語られているのです。

イエス様は、このことを知った主人が、この管理人の抜け目のないやり方をほめたとたとえを結ばれます。そしてさらに、「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている」と言われます。そのまま読んでしまうと、イエス様が管理人の不正なやり方を奨励しておられるように感じます。しかしイエス様が切羽詰った状況の中で弟子たちに対して語られていることを考えると、イエス様が見ておられるところが別にあることがわかります。

人々はイエス様の言葉を冷ややかに聞き、反感をもって聞き、他人事のように聞き、のんきに聞き流し、いっこうに理解していませんでした。律法学者たちやファリサイ派の人々は、現状で十分に豊かで満足できる生活をしていました。ですから自分たちの生活を変えたくないのです。一般の民衆など満足していない人も、不満を持ちながらも変わることを恐れるのです。今の私たち庶民に似ています。現状に不満はあっても政権が変わることは望まないのです。神様に求めることをしない人々のことを、イエス様は「この世の子ら」と呼んでいます。この世に染まり、この世に埋没し、この世のことしか見ていないからです。それに対して、神様に聞き従い、イエス様に従う人々のことを「光の子ら」と呼んでいます。しかし「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。」のです。神様に聞き従わないこの世の子らは、社会的なことでは知恵を働かせ、必死に働き、迅速に行動しています。

「そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」この言葉も難解な言葉です。「不正にまみれた富」という言葉を私たちの生活の現実という風に理解してはどうかと思います。私たちの社会は基本的に経済活動によって成り立っています。つまり、イエス様はこの現実の生活の中で、大切なものを選び取るように、それも緊張感と必死さをもちながら求めるように勧められるのです。その緊張感と必死さで神様の救いを求めるならば、この世の終わりの時、その救いは与えられるということです。

その意味で「ごく小さなことに不忠実なものは、大きなことにも不忠実である」と言われる時の「ごく小さなこと」とは、私たちの毎日の生活であり、「大きなことと」は、神様の救いを求めることにほかなりません。しかし、だからと言って私たちの究極の目的を見誤ってはいけません。現実の生活に必死になるあまり、それにどっぷり浸かりすぎて、それ自体が目的になって、お金や財産だけを求めてしまうようになっては本末転倒です。私たちは「神と富とに仕えることはできない」からです。私たちが求める究極の目的は、神の国であり、神様のご支配であり、神様の救いです。