2019年9月15日 説教要旨 松岡俊一郎牧師

神がわたしを探しておられる

ルカによる福音書 15: 1 – 10

皆さんの中にはお子さんがおられる方は、お子さんが迷子になられた経験があるだろうと思います。昔、長男が5歳ぐらいの時、神戸のショッピングモールで迷子になりました。私は彼が家内と一緒にいると思い、家内は私と一緒にいると思っていたのです。ふと思いついて、からくり時計のところにいるかもしれないと思い駆け付けました。よくそのからくりを一生懸命見ていたからです。案の定そこにいました。そして彼が発した言葉は、「ちゃんと探さんとあかんやろ」と関西なまりで言ったのでした。公園に行った時には、どこかの知らない家族の記念写真の中に紛れて写っていて慌てたこともありました。次女はよくスーパーの店内アナウンスで呼ばれました。自分が欲しいお菓子やおもちゃを一通り物色したら、定員さんのところに行って迷子になったと自分から言っていたのです。

さて、イエス様のところに、徴税人や罪人たちが話を聞こうと集まってきました。それをファリサイ派の人々や律法学者たちが注目していました。ユダヤ教の中では神殿での犠牲をささげる礼拝とシナゴーグ(会堂)での律法の学び、そして家庭での食事を通しての礼拝が大切だったのです。ですからイエス様がその食事を誰とされるかは重要なことだったのです。彼らは「この人は罪人たちを迎えて食事まで一緒にしている」と不平を言い始めました。不平というと、根拠のない不満のようですが、そうではありません。イザヤ書や詩編、箴言には、罪人から遠ざかるように教えているのです。つまり、イエス様の行動や振る舞いについて律法的に問題があると言っているのです。彼らの考えは、彼らだけに限ったことではありません。新約聖書の使徒書を見ると、もっと頻繁にそして厳しく、罪ある人々から遠ざかるように教えています。さらに、わたしたちの間にも、変わった人、悪そうに見える人、みすぼらしい姿の人には近づきたくない、関わりたくないという思いがあります。さらに親は子どもに、もっと露骨に「あんな人と友達になってはいけません」と言うこともあるのです。

彼らの考えの根底には、正しい者こそが神様によって救われるという考えがありました。日課の前後を見てみますと、この頃のイエス様とファリサイ派の人々、律法学者たちとの関係は、それほど悪いようには見えません。そうであるならば、彼らもまたイエス様の教えに一目置いていたと思われます。それだけにイエス様が、徴税人や罪人たちを食事に招いていることは腑に落ちないことだったのです。

そのような彼らに対してイエス様は「見失った羊」のたとえを語られます。幼稚園や教会学校でも「迷子になった羊」のお話として大変有名なたとえです。なじみのあるものにとっては、この羊飼いが良い羊飼いとしてのイエス様を表す、とても素晴らしいお話です。百匹の羊を持っている人がいて、そのうちの一匹がいなくなった時、残りの99匹を置いて、一匹を探しに行きます。そして見つけたら喜んで羊を担いで家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください」と言うのです。イエス様は「99匹を置いて、一匹を探しに行かないであろうか」と言われます。当然行くだろう、という言い方です。当時の羊飼いは、一匹一匹に名前を付けてかわいがっていたといいますから、そのようなことがあったのだと思います。

どうしてこの羊は迷子になったのでしょうか。羊飼いに従わない頑固で自分勝手な羊だった。体力的に群れについていけなかった。草を食べるのに夢中になり群れからはぐれてしまった。人の社会に当てはめてもあり得そうです。社会の流れに上手に乗っている人もいれば、社会についていけない人もいる。どうしても人とうまく合わせることができない人もいれば、人と同じことをしたくないと勝手気ままに生きる人もいる。

しかし、腑に落ちない点もあります。わたしたちの合理的な感覚からいったらどうかと言うと、一匹を探しに行ったあと99匹のうちの他の羊がどこかに行ったり、狼に襲われたりしたらどうするのだろう。そのようなリスクを考えるならば、一匹の犠牲は仕方がないと考えることもあるのではないでしょうか。そしてそのように考えるのが、現代の政治であり経済であり社会の常識的な感覚ではないかと思うのです。このような感覚でファリサイ派の人々や律法学者も、救いに関して、自分たち正しい者は救われ、罪人は裁かれると厳格に信じていたのです。しかし、イエス様の考え、神様はそうではありませんでした。神様の常識は人の常識とは大きく異なるのです。イエス様の最後の言葉、「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない99人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」と言われます。神様が望んでおられることは、多くの人を救うことではありません。すべての人の救いです。すべての人とは一人の例外や漏れもよしとされないのです。神様の教えを守り、救いにあずかっているならば、その人はすでにそれだけで救われています。しかし、神様を知らない人、罪ある生活をしている人に対して、神様はそのままでいることをよしとされないのです。

このたとえを考えるとき、1対99と考える見方が適当ではありません。なぜなら99がいつも99であり続けるわけではなく、99のうちの一つがいつ1になるかわからないからです。

イエス様は神様の愛を知っておられました。しかし、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、そのような神様のみ心を知りません。それどころか自分たちを正しい者、救われた者と考えていました。しかし、それ自体が誤りでした。なぜならば、救われた人が、神様が罪人を救おうとされている姿を見て、不平を言うはずがないからです。彼ら自身が、神様のみ心から遠く離れ、彼ら自身が救われなければならなかったのです。

続く「失くした銀貨」のたとえでも、同様に語られます。一人の罪人の悔い改め、一人の人の救いは、神様にとってはすべての人と等しい救いであり、喜びなのです。誰一人として、神様から離れていていいはずはありません。すべての人が神様と一つとなることが、神様の望みであり、天の喜びなのです。一匹の迷子の羊を探す羊飼いの姿は、私たちを探す神様の姿なのです。