2019年8月18日 説教要旨 松岡俊一郎牧師

悲しみ、やがて喜び

ルカによる福音書 12: 49 – 53

先日、来年のオリンピックに向けて女子トライアスロンのテスト大会がありました。そこで1位と2位の選手が手を取り合って一緒にゴールしましたが、ルール違反という事で失格になりました。幼稚園の運動会であれば、手をつないで一緒にゴールする光景は微笑ましいと受け入れられますが、大人の世界では許されないことでした。ルールでは判定を意図的に混乱させたという理由のようですが、その背景にはオリンピックを始め、大人の世界では「競う」ことと「勝つ」ことが重要だからです。私は個人的には、この競い合いが好きではありません。競い合うというところには、努力や向上という利点があることは分かるのですが、時と場合によります。競い合いと争いは紙一重であるように思うからです。

さて、今日の福音書の中でイエス様は「剣を投げ込むために来た」と厳しい言葉を語られます。平和の君と呼ばれたイエス様、平安あれと語られたイエス様、愛といつくしみの言葉に表されるイエス様の姿とその言葉に慣れているわたしたちにとって衝撃的な言葉です。なぜでしょうか。

イエス様は確かに平和の主であり、和解の主です。しかし、その和解の主が来られる時、和解出来ない人の現実、和解どころか欲と権力を求めるために争いをいとわない人の姿が炙りだされるのです。人々に現れる姿と混乱をイエス様は分裂と呼び、剣と呼ばれるのです。人の分裂の状態は、人の間だけに留まりません。それは神と人との分裂でもあるのです。人の間に愛が見いだせないところで神様への愛が見いだせるはずがないからです。

人の生活も人生も、愛情と助け合い、支え合いの中で営まれています。どこまでも平安で豊かな日常を希求しています。しかし、そうでありながら同時に、人は自分の欲望や自己実現、地位や名誉の獲得、偏狭な使命感に躍起になっています。実は私たち自身もそのような自分に疲れ、苦しんでいるのです。それは聖霊の火によって焼かれ清められなければならない現実です。

このような人の分裂と争いの状態の中で、いや、そのよう中だからこそイエス様は「しかし、わたしには受けなければならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう」と言われたのです。この洗礼とは十字架の苦しみと死にほかなりません。この分裂と争いの醜さ、悲惨さ、苦しみを引き受けるために、そして真の和解の礎となるためにイエス様は十字架にかかられたのです。この十字架によって人の罪は清められ、愛と平和に生きる命が新たに作られるのです。

このキリストの救いを知った者は、自ら平和の礎となることが求められています。マタイ福音書は言います。「平和を実現する人々は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」神様の平安を知った者にとって、欲と権力、争いに満ちたこの世は過ごし易い場所ではありません。絶えずその誘惑は自分の心の内からも、自分の外からも襲ってきます。さらにそこに引き込もうとする力もあります。目の前の安泰にしがみつき、人と違うことを主張したり信じたりすることにためらってしまいます。そのような誘惑と弱さ、力と闘わなければなりません。使徒書はそれらを神様からの鍛錬として忍耐しなさいと呼び掛けています。「あなたがたは、これらを鍛練として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。」