2019年8月11日 説教要旨 松岡俊一郎牧師

富をどこに蓄えるか

コヘレトの言葉 2: 18 – 26
ルカによる福音書 12: 13 – 21

最近、年齢の近い牧師たちの間で話題になるのは、神学論議ではなく、年金や退職後の居住の心配です。若いころはそんな先輩を見て、ちょっと情けないと思ったりもしましたが、定年が10年を切ると現実の問題になります。住む予定の家や財産のない私も心配ですが、家や財産のある方は別の心配があると思います。誰にどのように相続するか、相続税はどうなるか、いろいろ考えなければならないことがあります。財産はあってもなくても悩みどころです。

さて、旧約聖書の日課、コヘレトは私たちの現実の有様を冷めた目で見ています。

人は必ず死にます。お金や財産を持つことに努力したところで、一時的な満足は得られてもそれを天国に持っていくことはできないのですから、死んだあとそれが誰の手に渡るのかわからないのです。そこにむなしさがあるとコヘレトは言うのです。

さて、ある人がイエス様のところに「先生、私にも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」と願いました。財産の相続に関する争いはいつの時代に起ることです。イエス様はこの願いを一蹴されます。イエス様はその願いの中に、人の貪欲さを見てとられたからです。そしてたとえを語られるのです。

このたとえに登場する金持ちの気持ちはわからないでもありません。私たちもたくさんの収入があることを喜びますし、実際にそうなったらいいなと思うのです。しかしイエス様の言葉は、そのような私たちを厳しくとがめられておられるような気がします。表面的な豊かさ、一時的な豊かさを求める私たちを「愚か者」と呼んでおられるからです。イエス様が人びとに注意するように語られているのは、「貪欲さ」についてです。それに心を奪われている人のことです。

私たちは生きて生活していますから、実際のことに気を配り、働き、努力をするのは当然のことです。しかし、イエス様が見ておられるのは、わたしたちの心の中心がどこを向いているかということです。私たちが日々努力し積み上げている富や功績、名誉や名声。いったいそれらは何のために蓄えられているのでしょう。もしそれが貪欲のためであるならば、使徒書の日課はそれを偶像礼拝というのです。欲望は限りがありません。そして人はそれに支配されてしまうからです。

たとえが語るように、私たちの肉体の命はいつなくなるかわかりません。天国にもって行くことも出来ません。残された人々に、と考えても、そのことで相続争いが起きたり、親の名声が大きすぎて子どもの重荷になったりすることもあるのです。もちろんその逆もありますから、一概に決め付けることは出来ないかもしれません。

大切なことは、私たちが日々努力していること、求めていることが何かということです。大切なことは、神様が私たち被造物に限りない慈しみを与えてくださっていることを知ることです。わたしたちはもはや何にも心を奪われる必要がないことが言われていますし、そのような神様への信頼がより私たちを豊かにすることを約束してくださっているのです。

この生き方こそが私たちにふさわしい本当に賢い生き方だと思うのです。そしてこの生き方を選択する時、私たちの日常に起こる様々な思いわずらいから解放され、自由にされ、より豊かな命を生きることが出来るのです。

パウロはガラテヤの信徒への手紙5章13節でこう言います。「兄弟たち、あなたがは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせず。愛によって互いに仕えなさい。」私たちが求めるべきもの、するべきことを聖書は示しています。